20世紀には「六大悲劇」と呼ばれる負の歴史があった。
もっとも、筆者は「世界三大美人」だとか「世界三大文豪」などという括りはあまり好きではない。どんな尺度にもとづいた番付なのかがよくわからないし、「〇大」をつくることで他に光が当たりにくくなってしまうからだ。
さて、その「六大」とされる歴史的悲劇とは、オスマン帝国のアルメニア人虐殺、スターリン体制下のホロドモール、ナチスドイツのホロコースト、毛沢東主導による文化大革命、ルワンダ虐殺、そして今回取り上げるカンボジア大虐殺。
日本で王貞治が国民栄誉賞第一号になり、竹の子族やインベーダーゲームが流行していたころ、同じアジアのカンボジアではとんでもないことが起きていた。ずっとあとになって、筆者はこの惨禍を『キリング・フィールド』という映画で知った。
現在、カンボジアは開発途上国のなかでも特に貧しい後発開発途上国のリストに入っている。貧困の主因は、70年代後半に政府によって展開された無軌道なジェノサイドにある。わずか4年弱で社会基盤が破壊され、国民の4分の1が命を絶たれたのだ。眼鏡をかけているから、時計が読めるから、手にマメがない(農作業をしていない)からという理由で。平たく言えば、知識人狩りである。
悪夢の時代が終わり、いざ復興の段階に入ると、有能な人材はほとんど残っていなかった。人的資源は国力であるのに、その国力を政府が根絶やしにしたのだ。
20世紀最大の汚点といわれるカンボジア大虐殺。この外道の所業の犯人はクメールルージュ、指導者はサロット・サル。サルはいくつかのコードネームをもつが、広くポル・ポトという名で知られる。
ひとりの男が自国を文字通り「殺戮の大地」に変えてしまった。カンボジアでは今でも国土を掘り起こすと多くの人骨が発掘される。40歳以上は極端に少なく、40歳未満が極端に多い。人口ピラミッドがいびつな形を描くのも、年配層の識字率がきわめて低いのも、暗黒時代の負の遺産だ。
ポル・ポトは狂っていたか
独裁者には「サイコパス気質」と「ナルシシズム」と「底なしの権力欲」という心理的トライアングルがあるといわれる。しかしポル・ポトに関しては、この法則は当てはまらない気がする。
私腹を肥やさず、つましい生活をおくり、農民にまじって額に汗して鍬をふりおろす。その姿は、一般的な独裁者のイメージとは一線を画している。国家元首らしいところといえば、公用車にメルセデス・ベンツを使用していたことぐらいか。
「温厚で真面目」「国を思う気持ちが強かった」とは、殺戮王ポル・ポトになる前の青年サロット・サルを評した言葉だ。
おそらく彼は正気だった。すべては理想の社会のために、よかれと思って実行したのだ。無垢で幼稚な善意から。
自覚のない悪はタチが悪い。人は自分が正しいと確信したとき、どこまでもいける。勘違い野郎が権力を得て、正義を扱うことほどこわいものはない。胸に抱く理想が崇高だと思えば思うほど、非道な権力も正当化してしまう。なぜなら、自分は正義を行っているからだ。
自国の運命はみずからの手中にある。高揚感や陶酔感も勘違いを加速させる。こうなると、突き上げた拳をおさめるタイミングの見極めすらつかない。もとより引っ込む気などさらさらない。これは正しい闘いなのだから。
スターリンや毛沢東よりポル・ポトのほうが恐ろしいと感じるのはこの点につきる。ふたりのように暴力を冷徹に制御する力がポル・ポトにあったなら、民主カンプチアという国家は地上から消えていなかったかもしれない。かつてのソ連や現在の中華人民共和国のように。
こんな殺戮者は犠牲者と同じ拷問にかけられて、地獄の苦しみを味わえばよい。そう思う筆者の心のなかにもポル・ポトがいる。
「正義の側に立つ者は、悪の側になにをしてもよい」という発想がこの悲劇を招いたのだ。
暗黒時代の象徴~トゥールスレン虐殺博物館
クメールルージュとは、ポル・ポトが率いた共産主義政権をさす。フランス語で「赤いクメール」を意味する。カンボジアでは、クメール語を話すクメール人が9割以上を占める。
彼らは1975年から1979年までカンボジアを支配し、極端な共産主義政策を推し進めた。先に述べたように、国号は民主カンプチアという。
それは尋問・拷問・処刑を駆使する常軌を逸した恐怖政治だった。餓死も含めて、200万人が犠牲になったと推定される。そのなかには現地在住の日本人もいた。
首相であったポル・ポトは公の場には姿をみせず、国内外のメディアに顔をだすことも避けて、秘密主義を貫いた。が、命からがら脱出してきた難民の証言もあって、暴政は国外にも漏れ伝わっていたらしい。
プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館は、ポル・ポト時代のジェノサイドを今に伝える施設として名高い。ここはかつてS21というコードネームで呼ばれた拷問収容所で、1979年にベトナム軍によってプノンペンが解放されたときに発見された。発見時には腐乱死体が床に転がったままだった。
高校の校舎を改造したこの監獄に送られたのはおよそ2万人、生還者はわずか7人。
各部屋には足枷のついたパイプベッドが当時のままの状態で保存されており、拷問に使われた農機具も展示されている。高価な銃弾を節約するため、鋸状の樹皮をもつサトウヤシも処刑道具に使われた。
別棟には収容者の顔写真がずらりと並ぶ。「社会に不要」のレッテルを貼られた人々だ。そういう者は反乱分子とみなされて、水責め、糞尿責め、逆さ吊り、鋸挽きなどの責め苦の末に息絶えた。彼らの悲鳴や断末魔はどこにも聞こえない。スピーカーから大音量で流れるプロパガンダ音楽にかき消されていたからだ。
女性は全裸でベッドに拘束し、熱したペンチで乳首をはさんだり、身体にサソリをはわせるといった性的拷問も加えられた。
拷問から解放される唯一の手段は処刑されること。彼らは早く楽になりたい一心で、執行人が望む嘘の答えを口にした。収容者はありとあらゆる手段を使って自殺しようとしたために、万全の自殺防止対策も講じられていたという。博物館の携帯用音声ガイドはこう訴える。
「ここを訪れた人は記憶の保管者になってください。ここで見た現実を一人でも多くの人に伝えることがあなたの使命です」
クメールルージュが運用していた収容所は、カンボジア全土で196か所にものぼる。
殺戮の大地~キリング・フィールド
やがて遺体を埋めるスペースがなくなったため、埋葬する場所が必要になった。映画のタイトルにもなったキリング・フィールドとは犠牲者の埋葬地であり、処刑場の俗称でもある。
国内に300か所あるキリング・フィールドでは、今も雨が降るたびに、無造作に埋められた犠牲者の遺骨が地中から顔をのぞかせる。あちらこちらの地面がこんもりと盛り上がっているのは、遺体から発生したガスの名残りだ。
プノンペン郊外のキリング・フィールドには、おびただしい数の頭蓋骨がガラス越しに整然と納められた慰霊塔がある。ひとつひとつに処刑方法で色分けされたシールが貼られていて、破壊活動の凄惨さを今に伝えている。
1975年4月17日、国民は悪夢をみた
ポル・ポトというモンスターはどうして生まれたのか。
背後には常に大国の影があった。彼にチャンスをもたらしたのは、ベトナム戦争とその副産物であるカンボジア内戦だ。
1975年4月17日、クメールルージュが首都プノンペンを制圧し、米国の傀儡政権を倒した。クメール共和国が崩壊し、ようやく内戦は終結する。以下はポル・ポトの義弟で副首相兼外相をつとめ、21世紀に開廷した戦争犯罪裁判の進行中に死去したイエン・サリの言葉だ。
「親米のロン・ノル政権を倒して、われわれは有頂天になっていた。世界最強のアメリカに勝ったのだと。歴史上の誰にも果たせなかったことでさえ、われわれには可能なのだと。誰の苦言にも耳を貸さなくなった。それが敗北を引き寄せた」
クメールルージュのNo.3は、人道に対する罪を「敗北」と総括する。
ともあれ、プノンペン解放を市民は歓迎した。これで戦争のない平和な世の中になると誰もが考えたのだ。ところが、翌日に出されたのは市外退去命令だった。近々米軍が首都を空爆するから地方へ避難せよ、という。
もちろん、これは方便にすぎない。都市住民を農村に移住させ、農業に従事させるカンボジア農村化政策のはじまりだ。ポル・ポトにとって、都市とは文明・資本主義・ブルジョワ思想に毒された忌むべき場所でしかない。フランス統治時代に東洋の真珠とうたわれた美しいプノンペンは、わずか3日でゴーストタウンと化した。
年が明けた1月、国号が民主カンプチアに改まる。
民主カンプチアは当初、国民に人気の高いノロドム・シハヌーク殿下を国家元首として戴いていたが、実権を掌握していたのはポル・ポトである。まもなく殿下は王宮に幽閉されてしまった。
かくして地獄の季節が幕を開ける。
そうだ、原始時代にもどろう
めざしたのは「完全なる平等社会」だった。そのぶっとんだ脳内をざっくりと文字に起こすとこうなる。
人間社会の不平等はなぜ生まれたのか。その根源は蓄財にある。ならば誰も富の蓄えができないように、農作物を平等に分配することのみでまわる社会をつくればよい。カンボジアを原始時代に退行させ、農業のユートピアにすれば万事解決するではないか。これを実現させるために、全国民を農民にする。格差のない国家のために、オレはやるぜ、オレはやるぜ!
ようするに、農耕よりあとの文明の全否定である。階級や格差のない原始社会の状態に戻ろうという考え方を原始共産主義という。
もっともポル・ポトの場合、「マルクス主義の本を読んだが、難しくてよくわからなかった」と白状しているように、原始共産主義を自己流に解釈しているのだが。
国民の財産は没収、通貨は廃止。学校、病院、裁判所も不要。文化、娯楽、自由恋愛など原始時代にないものはすべて禁止。いや、恋愛らしきものはあっただろうというツッコミが聞こえてくる。
それにつけても厄介なのは、文明の毒に染まったインテリ層だ。頭のいい人間がいると、また文明が生まれてしまう。知識人は格差をもたらす。人はただ額に汗して作物をつくり、それをみんなで分かち合えば幸福に暮らせるのに、知識人はそれに反することを吹聴する。彼らには、この崇高な理想が理解できない。そんな輩は害悪でしかない。そもそも原始時代にインテリは存在しない。
国民に黒い農民服をあてがい、文明の利器を一掃した。人々の移動手段は徒歩になった。農村への強制移住の先に待っていたものは、劣悪な労働環境による栄養失調と飢餓だった。
さらに、仕事や留学で海外に居住する自国民に向けて布告する。
「医師、教師、技術者、学生は優遇するので帰国してください。理想の国づくりのために、あなたがたの力が必要です」
こうして集められた知識人も片っ端から処刑した。理想の社会に邪魔な存在だったからだ。
少年少女の利用
インテリ狩りが激化する一方で、重用されたのが10代前半の子どもたちだった。
大人と違い、彼らは邪悪な思想に染まっておらず、教化もしやすい。政府は家族制度を廃止し、数千人もの子どもたちを徴集して、兵士・看守・医師として採用した。「徴集」というと聞こえはいいが、実質的には拉致である。
子どもが大人を監視し、処刑する国。数か月の医療レクチャーを受けただけの子どもが医療行為を行う国。
知識層を中心とした大人を根絶し、洗脳した少年少女を残すことで、永久政権をつくろうとしていたのではないかとの見方もある。
草を刈るなら根っこまで
プノンペンのキリング・フィールドに、「キリング・ツリー」と呼ばれる大木がある。
この処刑場が発見されたとき、この大木に人間の髪や歯がこびりついているのを一人のベトナム兵が気づいた。いったいこの木でなにが行われていたのだろうと思って周囲を調べてみると、かたわらの小高い土山から無数の小さな頭蓋骨がでてきた。
「腐ったリンゴは箱ごと捨てろ」。これが政府の信条である。知識人だけでなく、その家族まで連行したのは報復を恐れてのことだった。看守が赤ん坊の脚をもち、頭を木に叩きつけて殺害すると、かたわらの穴に放っていく。その一部始終を母親に見せてから母親を処刑する。
こうした蛮行は首都だけでなく、カンボジア全土の収容所でも行われていたとみられている。ときに国家は、これほどまでに国民に牙をむく。
崩壊
殺戮を止めたのはベトナム軍だった。1979年、亡命者で結成された軍隊とベトナム軍の共闘によりプノンペンが陥落し、ついにクメールルージュが打ち倒される。ベトナムはカンボジアを影響下においたが、プノンペンを植民地にしたわけではない。悪魔の政権を倒して民衆を解放したという点においては聖戦といえるだろう。
驚くことに、このとき14歳以下の子どもが国民の8割以上を占めていた。国を復興する人材がいない国、子どもを教育できる大人が消えた国、それがカンボジアだった。
新政権に首都を追われたポル・ポトは、タイ国境付近の密林地帯に逃げ込んでゲリラ戦を展開する。しかし、幹部が次々と離脱・投降してしまう。
1998年4月15日、彼はジャングルで死んだ。心臓発作と伝えられたが、死因には不審な点が多い。2002年にタイ軍部が公表したところによると、検死報告に依拠するかぎり、毒殺または服毒自殺でまちがいないという。トップに黙って死んでもらい、全責任を負わせようと企んだ幹部がいたのかもしれない。遺体はすぐさま古タイヤとともに焼かれてしまった。
結局、大量虐殺の最高責任者はなんら責任を問われることはなく、また自身がどれだけ関わっていたのかも永遠に謎となった。
革命の矛盾点
彼が掲げた「理想の国」のありように、あなたはコーヒーを吹いたかもしれない。無理もない。この男のやっていることはめちゃくちゃで、矛盾だらけなのである。
第一に、原子共産主義が理想とするのは農業社会ではなく狩猟採集社会であろう。今日獲った食料を今日食べて生活する社会では、糧はその日のうちに消費されるため余剰資産は残らない。資産が余り、それを蓄えることで、はじめて格差が生まれるのだ。狩猟採集社会では、長期保存が可能で私有財産になりうるものは狩りの道具ぐらいではないか。
私有財産を生んだ土壌は、むしろ農業と牧畜だ。農業による定住社会がコミュニティ、ひいては国の興りになったのだ。文明こそ悪だと言って文明を否定しているくせに、文明のはじまりである農業を棄てていない。
さらにいえば、原始時代にはなかった「○○の禁止」をしてしまった。国民からは文明の利器を取りあげたのに、自分たちは車や銃をもつ。説得力もへちまもない。
人間は未来志向で、前に向かう生き物だ。ひとたび文明を知った者が原始時代に戻れるとは思えない。
最後のインタビュー
ポル・ポトが死の数か月前に受けたインタビュー映像が残っている。
頭はすっかり白くなり、田舎の農村の純朴な老人といった面ざしで、カリスマ性のかけらもない。もとよりカリスマ性などなかったが。
彼は穏やかに、淡々と、しかし毅然と、こう訴える。
「きみに言っておかなければならない。わたしは国民を殺すために立ち上がったのではない」
「わたしが残酷にみえるかね? みえないだろう? 心は常に平穏なのだから」
残酷にみえるかどうかはどうでもよい。心が平穏だとすれば、それこそが問題だ。
同じ殺戮者であっても、スターリンと毛沢東は功罪ともに大きい。かたやソ連を超大国に押しあげた偉大な指導者として、かたや列強の食い物にされていた自国から外国勢力を追いだした建国の父として、肯定的にとらえる自国民も多い。けれどポル・ポトの貢献はなにもない。国を破壊し、死体の山を築いただけだ。難しいイデオロギーを生半可に理解したつもりの夜郎自大がトップになった結果が
これなのだ。
筆舌につくせぬ地獄の3年8か月は、カンボジアの人々の心にどれほどの傷を残しただろう。その傷痕が重く根深いことはまちがいない。
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