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楠木正成楠と正儀

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鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、河内近辺に勢力を有していた楠木一族の生き方を考えてみました。
楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉幕府得宗の被官であったのに、何故、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇に忠誠を尽くすようになる。三男の正儀は、南朝と北朝の間を行ったりきたりを繰り返した。
その理由を私なりに考察していきます。

目次

楠木正成

正成は得宗の被官であったのに、何故後醍醐天皇に仕えるようになったのでしょう。
法華経を重んじる宗派は天台宗と日蓮宗で、法華経は生きている今現在をどのように過ごしてゆくべきかという点についての記載が多く、この点に惹かれたのでしょうか?

後醍醐天皇と正成の間を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐といわれています。文観は弘法大師空海の再誕と称せられ、後醍醐天皇の真言密教における師でもありました。楠木氏の菩提寺観心寺は真言密教の開祖空海が再構築したと言われていて、少年期の正成は観心寺で修行しています。

正成は猛々しい武士の面だけではなく、深い宗教心も備えていて、後醍醐天皇と共に真言密教の学徒であったので、心の結び付きが強く、忠誠の念は並み大抵のものではありませんでした。

正成は、足利尊氏の大軍との湊川の戦いに敗れ自刃して果てます。
長男の正行との別れの宴では敗死を予測していたにもかかわらず、後醍醐天皇の指示に従って湊川へ赴いたのです。
後醍醐天皇は、高僧文観の仲介があったとはいうものの、鎌倉幕府の一介の被官に過ぎなかった自分を、天皇直下の将軍にとりたててくれたのです。

楠木正儀

長男の正行と次男の正時は、父親の戦の才能を引き継いで、南朝側として活躍しましたが若くして戦死してしまいましたので、ここでは述べません。

三男の正儀は、物心がついてきたころには、南朝と北朝が既に並んで存在していて、朝廷に対し謀反を起こした形の足利尊氏に対する世の中の反感も希薄になっていました。日本の武士団全般は、元寇で勇敢に戦った自分達に対して鎌倉幕府からの土地等の褒賞が殆どありません。
その不満などから鎌倉幕府を滅ぼしてみたものの、後醍醐天皇の政策が武士を下に置いて、公家や朝廷が世の中を仕切る平安時代のシステムに戻そうとするものであったので、これに抵抗する足利尊氏に武士達の人望が集まるようになっていました。

北朝の方も天皇家の一族であることには変わりありません。おそらく正儀としては、内紛で収まらない朝廷どうしの長期にわたる争いを鎮め、平和な世を作りたいという気持ちが強くなっていったのでしょう。そのために再度統一された朝廷にするためには、裏切り者と言われることも辞さないという感じで南朝側についたり北朝側についたりしていたのでしょう。

父正成や兄達は、南朝の劣勢な武力を盛り立てて北朝とほぼ同等のポジションで北朝と交渉できるように尽力しましたた彼らより、視野が広かったとも言えます。

残念ながら、正儀自身は朝廷の統一実現を目にすることなく世を去りましたが、南朝と北朝の統一実現には、正儀の働きが大きかったと思います。

※画像はイメージです。

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