長いあいだ行方が知れず、現在もなお生死すら不明である爆破事件の犯人が、アメリカにいる。
通称「ウィスコンシンの亡霊」と呼ばれている、レオ・バートである。
動乱の1970年
事件の起きた1970年、アメリカはベトナム戦争を背景に、大学を中心とした反戦運動と暴力が常態化し、ケント州立大学での発砲事件が象徴するように、学生運動と国家権力の対立は、すでに一線を越えていた。
そのような情勢のなか、アメリカは暑い夏を迎える。
1970年8月24日の深夜、ウィスコンシン大学マディソン校のキャンパス内にあるスターリング・ホールで大爆発が発生。
大学には、アメリカ陸軍数理研究センター(AMRC)が入っていた。
AMRCとは米陸軍から多額の資金提供を受け、軍事作戦への応用を前提とした研究を行う施設であり、当時の反戦運動家からは明確な「攻撃対象」と見なされている存在だ。
フォード社製のワゴン車に積まれた大量のANFO爆薬が爆発し、火の手は夜空を明るく染め、爆音は周辺広域にまで響き渡った。スターリング・ホールは壊滅的な被害を受け、建物はほぼ崩壊。
この爆発によって、AMRCとは無関係だった若手研究者1名が死亡し、複数の学生が重傷を負った。
ニューイヤーズ・ギャング
警察の捜査によって、事件はテロ行為であることが判明する。
犯行グループは「ニューイヤーズ・ギャング」を自称する4人組の反戦過激派で、犯行の動機はAMRCの破壊、すなわちベトナム戦争への協力に対する抗議だった。
だが皮肉なことに、主たる標的であったAMRCは致命的な損壊を免れ、死者は無関係の研究者だった。
理念と結果が最悪の形で乖離した事件だったと言える。
警察は犯行グループのうち3名を逮捕することに成功したが、最後の1人、レオ・バートことレオ・フレデリック・バートだけは、捜査網をすり抜け、そのまま姿を消した。
事件から50年以上が経過した現在に至るまで、レオ・バートは一度も逮捕されていない。
レオ・バートはどこへ消えたのか?
事件直後、バートは仲間とともに逃亡していたが、途中から単独で行動するようになり、それ以降、完全に消息を絶った。服役を終えた共犯者や家族とも接触した形跡はなく、生死そのものが不明のまま。
レオ・バートには数多くの目撃情報や通報が寄せられてきた。
事件から数週間後には、クリーブランドで働くウェイトレスが「本人を見た」と警察に通報したが、確認の結果は人違いだった。中米コスタリカのリゾート地で働いているという話もあったが、裏付けはなく、信憑性のある情報とは言いがたい。
一方で、爆弾を用いた反体制的なテロという共通点があったことから、当時その正体が不明だった小包爆弾による連続テロ犯ユナボマーについても、レオ・バートではないかと噂されたことがあったが、後に逮捕されている。
事件の翌年である1971年、旅客機をハイジャックし多額の身代金を得たのち、パラシュートを背負って消息を絶った「D・B・クーパー」の正体にが、レオ・バートではないかとする噂が流れたことがある。
しかし犯行手口や思想、行動範囲に共通点はほとんどなく、単に「未解決で正体不明」という点だけを根拠に結びつけられた、信憑性に乏しい説に過ぎない。
いずれも捜査上の根拠を欠いた憶測に過ぎず、FBIも公式には一切関連性を認めていない。
完全に姿を消したまま現在に至っているということだけが事実である。
見つかるのか?レオ・バート
現在もFBIはレオ・バートを重要指名手配犯として捜索し、最大15万ドルの報奨金を掲げているが、約50年にわたり、レオ・フレデリック・バートの行方は完全に途絶えている。
確実な目撃情報はなく、痕跡も残されていないことから、彼はいつしか「ウィスコンシンの亡霊」と呼ばれるようになった。
仮に生存していれば、2025年現在で77歳前後になり、半世紀にわたって追跡を逃れ続けることは現実的にも精神的にも容易ではない。捜査する側も同様で、もし彼が「もう終わりだ」と電話してきたら喜んで受け入れるだろうとFBIは見解しているようだ。
ふと思ったのだが、爆発規模を考えれば、事件当夜に爆発に巻き込まれて死亡し、確認不能な形で消滅した可能性もあるのではないだろうか?
生きていても、死んでいても、その存在は確認できないが、記録には名前だけが残るのだが、姿はどこにもない。
まさに「ウィスコンシンの亡霊」だ。


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