私が訪問看護に従事していた頃の出来事です。
その日、事前面談で八十代の女性宅を訪れました。ご主人を亡くし、一人暮らしを始めたばかりの方でした。
扉の奥からの音
かつては夫婦で飲食店を営んでいたのですが、高齢を理由に店を閉じ、建物の二階にある住居で一人暮らしをしていました。
通された部屋は質素で、ベッドと小さなテーブル、壁際に仏壇。外の通りの音もほとんど届かなく静かな部屋で、昼間だというのに薄暗く、わずかに線香の匂いが漂います。
私は入ってすぐの床に腰を下ろし、お話を聞いていると、何を話していても話題は自然と亡くなった夫のことに移ってしまうのです。ご主人とよほど絆が強い方なのでしょう、とても深い悲しみを抱いていて、言葉の端々に失った存在の重さが滲んでくるのが解ります。
そうしていると、時々、奥の扉の奥から「ドン」と音がするのです。
最初は気にならなかったのですが、だんだんその音の頻度が増して、ドン、ドンドン、ガタガタとまるでその扉の向こうに誰か居るかのような妙な感覚を覚えました。
でも、この家には患者さんしか居ないと聞いていますから、そんな事はないはずです。
葬儀の写真
気にしないようにして、話を進めていると、ご主人の葬儀の話になりました。
「どうしても主人に会いたい。どうしても主人を忘れたくなかった。ずっと思い出していたいから、主人の死に顔の写真を撮ったの。葬儀の様子も全部。」
「写真を現像してみたら、しゃれこうべが写ってたの。」
「しゃれこうべってわかる?最近の若い人は分からないみたいなんだけど、頭蓋骨のことよ」
要するにドクロです。
「その写真見てね、私主人が姿を現してくれたんだと思ってすごくうれしかったの。」
「親族や親戚は嫌がって処分しろといったけど、私にとっては宝物なのよ」
そんなように屈託のなく、表情豊かに泣いたり笑ったりしながらお話してくれるのですが、扉はもうはっきりとドンドン、ドンドンと中から何かを訴えるように音を立てるのです。
さすがに無視できなくなり、扉の音について尋ねようとしたときです。
突如、患者さんが私の問いを遮るように立ち上がり、「信じてくれる? 見てくれるかしら。いやじゃなかったら、ちょっと見てほしいの」と、まっすぐ例の扉の前へ歩いていきました。
音が止まった
患者さんが扉を開けた瞬間、それまで続いていた物音は止まり、患者さんはそのまま中へ入っていき、姿が見えなくなりました。
すると直後、話し声が聞こえてきました。独り言とは違い、間を置きながら誰かに語りかけているようですが、内容までは解りません。
数分後、患者さんは小さなアルバムを抱えて戻ってこられましたので、私は尋ねました。
「どなたか、いらっしゃるのですか」
患者さんは不思議そうな表情で私を見て、
「この家には、あなたと私しかいませんよ」
と答えられたのです。
私は釈然としませんでした。
納戸の奥に誰かがいるのではないかという感覚が拭えませんが、ご家族からは認知症状が進行している可能性があると聞いているので、現実認識に揺らぎがあっても不自然ではありません。
見当識の評価も目的の一つでしたが、私はそれ以上は踏み込まず、アルバムを拝見させてもらっていると、あれほど続いていた物音がしなくなっていました。
アルバムの写真
目を閉じ穏やかな表情を浮かべたご主人の遺体、静かで整った顔立ちで、生前の面影を残しています。
祭壇や供花の様子を写しているのですが、ほとんどの写真の中央に、上からもう一枚の写真を重ねたかのように、きれいな黒いドクロがうっすら透けてみえるのです。
偶然の影や光の反射というには整いすぎていますし、患者さんは写真を現像したり合成する技術を持ち合わせていないはずなので、本物の心霊写真なのでしょう。
目を見開き写真を凝視している私に、患者さんが穏やかな口調で言います。
「どんなに他人が気持ち悪がったとしても、どんなに嫌がられたとしても、自分にとってこれは夫が愛情表現してくれている証拠なんです。 大切な宝物なんです。」
そう言ってアルバムを大切そうに胸に抱く姿は、神々しくさえありました。
帰りの際
予定より時間はかかってしまいましたが、聞き取りを終え、私は退出するのに挨拶をしました。
玄関へ向かおうと立ち上がったそのときから、再び、ガタガタと物音がしだしたのです。
患者さんは何事もない様子でアルバムを抱え、扉を開けて中へ入っていく瞬間、私は扉の奥を覗き込むと、人影がみえたのです。反射や錯覚でなく、確かに「そこに誰かがいる」と感じて、「やっぱりね」と思いながら、患者さんの家をあとにしました。
それから数週間後のことです。訪問看護を開始する前日、ご家族から連絡が入りました。
患者さんが亡くなったため、契約を取りやめたいとのことでした。
差し出がましいとは思いましたが、どうしても確認せずにはいられません。
「どなたか、ご一緒にお住まいだったのでしょうか」
電話口でそう尋ねると、ご家族は即座に否定しました。患者さんは間違いなく一人暮らしだったというのです。
亡くなった後、身の回りの整理のために家族が室内へ入った際、すでに息を引き取っているのを発見したとのことでした。
結局、あの音や人の気配がなんだったのかは解りませんが、亡くなったご主人がサポートしていたのかもしれない。
そんな風に思えてなりません。
亡くなった患者さんの胸にはしっかりと、あのアルバムが抱かれていたそうです。
※画像はイメージです。


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