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太平洋戦争における大日本帝国海軍「幸運艦」とは?

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これまでの世界各国の海軍に在籍した艦艇の歴史を振り返ると、多数の激戦に参加したにも関わらず艦自体が以後に使用不可能になるような致命的損傷は受けず、最後まで撃沈されなかった艦艇が少なからず存在する。
こうした艦艇はその経歴に賞賛と畏怖の念を込めて「幸運艦」と呼ばれる事が多いが、特に第二次世界大戦の日本と連合国との間における太平洋戦争は稀代の消耗戦であった為、日本は特に多くの艦艇の犠牲を被った。

そのような状況下、最終的には組織的な活動すら困難となった当時の大日本帝国海軍において、幾多の激戦を生き延びた事実から今日でも「幸運艦」と語り継がれている艦艇が存在している。
第一次世界大戦の戦勝国に名を連ね、アメリカ、イギリスに次ぐ世界第三位の規模の誇った大日本帝国海軍の艦艇の中から、太平洋戦争に従軍し活躍を果たした代表的な「幸運艦」を紹介してみたい。

目次

太平洋戦争における日本側の圧倒的不利な状況

冒頭でも「幸運艦」が幾多の激戦に参加しながらも生き延びてきた存在である事は述べたが、太平洋戦争とは言うまでも無く恐るべき国家の総力を挙げた消耗戦であり、そもそも工業産力で劣る日本には不利な戦いだった。
その為、開戦劈頭の真珠湾攻撃やマレー沖海戦などの奇襲攻撃等に代表される初期の戦いにおいては、艦艇の乗組員、航空機の搭乗者の高い練度に支えられる形で一時的な優勢が得られたと言えるだろう。

そうした中でアメリカが桁違いの工業生産力をフル稼働させて多くの多種多様な艦艇を次々と建造し戦いに投入すると、初期の艦艇の乗組員や航空機搭乗者を損耗した事とも併せて得られていた日本側の優位性は著しく低下した。
そして大きな流れとしてミッドウェー海戦に象徴されるような戦術的な大敗北を日本側が喫すると、以後は局地的な戦いで善戦をしたケースは多少は散見されたものの、戦局船体を覆すような戦果は挙げられなかった。
そんな防戦・守勢に回り不利な戦いを強いられた大日本帝国海軍の艦艇の中でも、激戦を潜り抜け「幸運艦」と呼ばれた艦艇があり、その最も有名な例としては駆逐艦・雪風を外す事はできないだろう。

駆逐艦「雪風」

大日本帝国海軍の艦艇の中で「幸運艦」の代名詞的存在と言えば、先ず初めに必ずその名が挙げられるのが駆逐艦「雪風」であり、ミリタリー好きであれば誰もが一度は見聞きした覚えのある艦名だろう。
「雪風」は当時の大日本帝国海軍の中で一等駆逐艦と呼称された陽炎型駆逐艦の8番艦であり、これに夕雲型駆逐艦を加えた全38隻の中でただ一隻のみ過酷な消耗戦を生き抜き、太平洋戦争を終えた。

「雪風」は基準排水量が2,033トン、全長が118.5メートル、最大幅が10.8メートルの艦体に、最大で52,000馬力を発揮する機関部を搭載し、最大速力は35.5ノット、航続距離は18ノット時で5,000海里を誇った。
「雪風」は1940年1月に就役、1941年12月の太平洋戦争の開戦後には先ず南方で陸軍のフィリピン上陸を支援、以後1942年2月のスラバヤ沖海戦、同年3月の西部ニューギニア戡定作戦、同年6月のミッドウェー海戦に従軍した。
以後も「雪風」は1942年10月の南太平洋海戦、同年11月の第三次ソロモン海戦、1943年2月からはガダルカナル島撤収作戦に従事、三度に及んだこの撤収で僚艦の駆逐艦を多数失う中、任務を完遂した。

「雪風」は1943年7月のコロンバンガラ島沖海戦、1944年6月のマリアナ沖海戦、同年10月のレイテ沖海戦、1945年4月の坊ノ岬沖海戦をも生き延び、最後は同年6月に京都府の北方の宮津湾に停泊、同年8月の敗戦をそこで迎えた。
敗戦後の「雪風」は1946年2月から12月まで中国大陸からの復員兵の輸送艦として使用されたが、その後、戦時賠償艦として翌1947年7月に中華民国に譲渡され、1948年5月には同国海軍の「丹陽」としてその旗艦を務めた。
「丹陽」となった「雪風」は1965年12月に中華民国海軍をようやく退役、1970年に除籍を経て翌1971年末に解体され、大日本帝国海軍での就役から実に31年及ぶ生涯を終えた。

航空母艦「隼鷹」

大日本帝国海軍の「幸運艦」としてここで2隻目に紹介したい艦艇は航空母艦の「隼鷹」であり、同艦は正規の航空母艦として建造に着手されたものではなく、橿原丸級の貨客船の1番船「橿原丸」として1939年3月に起工された。
後に太平洋戦争が勃発しなければ「橿原丸」は日本郵船が保有する貨客船として就役した可能性があったが、その開始を受けて航空母艦への改装が実施され、開戦翌年の1942年5月に 隼鷹型航空母艦の1番艦として海軍に就役した。
大型である程度の速力を確保可能な商船を戦時には航空母艦に改装して運用すると言うアイデアは、第一次世界大戦後のイギリスで考案されたものであり、大日本帝国海軍でも視察を通してその有用性を認めたものと目されている。
そのため「橿原丸」は戦時には航空母艦へと改装される事を前提に建造された商船であり、基準排水量は24,140トン、満載排水量は29,471トン、全長は219.32メートル、全幅は26.70メートルの規模を誇った。

航空母艦「隼鷹」は元は商船であった為、機関の最大出力は56,250馬力と強力とは言えず、そのため最大速力も25.5ノット程と、30ノット以上を誇った正規航空母艦に比すれば艦としての性能が低かった点は否めない。
それでも1942年6月のミッドウェー海戦によって、1度に4隻の正規の航空母艦を喪失した大日本帝国海軍にとって「隼鷹」らは貴重な戦力となり、中型航空母艦並みの50機前後の艦載機数を確保していた事が評価された。
「隼鷹」は1942年6月のアリューシャン攻略作戦を皮切りに、同年10月の南太平洋海戦、同年11月の第三次ソロモン海戦、1944年6月のマリアナ沖海戦に従軍し、同年12月にアメリカ海軍の潜水艦による攻撃で損傷を受け長崎の佐世保へと回航された。
そのまま「隼鷹」は佐世保港で敗戦を迎える事となったが、機関部に深刻な損傷を抱えていた事から戦後再利用させる事はなく、そのまま解体されてその生涯を終えた。

「氷川丸」

大日本帝国海軍の「幸運艦」とし3隻目に紹介したいのは「氷川丸」だが、こちらは正式には軍艦ではないので厳密には「幸運船」と呼ばれている事が多く、元々は1930年4月に日本郵船が運用する貨客船として竣工した。

「氷川丸」は総トン数が11,622トン、全長が 163.3メートル、全幅が20.12メートルの船体を持ち、機関は2基のディーゼル・エンジンで最大11,000馬力を発生、最大速力18.21ノット、航続距離は15ノットで18,700海里を誇った。
1920年代にはアメリカ西海岸の重要な港であるサンフランシスコに向けた太平洋の北米航路を、日本とアメリカとカナダの貨客船運航企業がそのシェアを競う状態であり、「氷川丸」もその用途に向けて建造された。

しかし前述したように貨客船「橿原丸」が戦時には航空母艦「隼鷹」として大日本帝国海軍に用いられたのと同様、「氷川丸」もいざと言う場合には簡易的な航空母艦として改装される事が想定されていた。
但し「氷川丸」は太平洋戦争開戦前月の1941年11月、大日本帝国海軍に徴用はされたものの、当初予定の簡易の航空母艦ではなく、特設病院船として改装を施されて太平洋戦役の各地で戦傷者を収容し、横須賀や佐世保へ運ぶ任務を遂行した。

「氷川丸」は舞鶴にて敗戦を迎えた後、戦後は特別輸送船として1946年8月まで復員者の輸送に用いられ、その後は国内航路の輸送に従事、また1953年からはアメリカのシアトルに向けた航路への運航も再開、1960年までその任にあたった。
1960年10月に最後の航海を終えた「氷川丸」は、翌1961年5月から横浜の山下公園に係留・保存され、以後保有主体の変遷等はあったが2023年現在も一般公開されており、今も訪れる事が可能な文化財となっている。

日本における軍艦の保存の困難

これまで紹介してきた所謂「幸運艦」の中でも今でも保存されて残されているのは、太平洋戦争中には特設病院船として運用された「氷川丸」だけだが、そもそも軍艦という括りでは日露戦争時の戦艦「三笠」が横須賀に残されているのみである。
第二次世界大戦・太平洋戦争の勝者となったアメリカは、数多くの戦艦を記念館として複数の場所に保存しているが、やはりあの戦争を勝者として終えられた事がその最も大きな理由である事は疑いの余地はない。

日本も「雪風」など敗戦時まで生き残り、中華民国海軍に譲渡された経緯があったが、何とかその任を終えた際に返還を願い出て保存できていればと思わずにはいられない。
しかし日本は太平洋戦争の敗戦国として、そのような行動が政治的にも許されなかったであろう事は想像に難くなく、何とも言い難い想いが去来する感覚を個人的には拭い去れないものがある。

※画像はイメージです。

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