「ガンダム」誕生から45年を数え、日本エンタメ市場においても有数の巨大IPに成長したコンテンツであり、改めて説明する事は特に無いと言って過言ではないでしょう。
最初のリリース「機動戦士ガンダム」から、続編や派生作品、関連商品等々、数多のコンテンツを産み出し、未だに新たなファンを開拓し続けている「生ける伝説」とでも言うべき作品です。
一方、今回の「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」を送り出すのは「株式会社カラー」。「エヴァンゲリオン」を筆頭に「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」、昭和を代表するコンテンツの「熱烈で濃厚な二次創作」を送り出した。
事情を知るなら「シン・機動戦士ガンダムか?」と思わずに居られなかった、驚くべきタッグの作り出した世界。
捻くれてしまったガンダムおじさんの目にそれがどう映ったのか、過去作からの観点を含めて思い入れを語らせて頂きます!
もう「ガンダム」で感動しない!そんな風に思ってた筆者のガンダム観
少々センセーショナルな物言いで、ガンダムファンから怒られてしまいそうな見出しになってしまいました。
しかし、これは筆者が「個人的に感服したオチ」を見せられてしまったという意味である事と、言い訳させて頂きます。ややこしい物言いで始まる辺りも含め、「めんどくさい一ファン」であると見て頂ければと思う次第です。
そんな「めんどくさい一ファン」が「ガンダムのストーリー」の何処に食い付いたかと言えば。
メカや設定、宇宙世紀の歴史や科学的うんちくはもちろん大好物なのですが、今回はあくまで「ストーリー」という事。それらはひとまず横へ置いて、「人間達の相互(不)理解の物語」という部分です。
これはシリーズの創始者である「富野由悠季」氏が描き出した物語の中で「ニュータイプ(NT)」という存在に託されつつも、同氏の手では「(意図的に?)果たしきれなかった」と言える軸です。
主要人物である「アムロ・レイ」や「シャア・アズナブル」等の人物が特異的に発現させる、「常人を遙かに越える戦闘適正や操縦技術」であったり、「時間・空間を超越的に特定対象を認知する知覚」といった「従来の人類と一線を画する能力者」というような意味合い。
「宇宙という新たな環境へ適応した人類の姿」を予見的に示した観点、更には「歴戦の勇将が経験的に得たであろう洞察力が先鋭化した形」なども含めて、「半ば意図的に」混同させられたような語彙として現れているのが「ニュータイプ(NT)」という存在だと思うのです。
「富野由悠季」氏は、この「NT」の本質として「拡大された認識能力が相手の思考や感情などをイメージとして瞬時且つ総体的に認識してしまう」という姿を描き出しています。
ですが、その本質が「生死に関わる苛烈な思考や感情の渦巻く戦場」に曝されてしまい、歪んだ形で歴史の闇に飲み込まれてしまう形。戦力としての扱いを完成させ、巨大な戦果を挙げる事で「畏怖される英雄」となる。
死に行く者の感情に感応してしまい、超常の能力と引き換えに精神が崩壊してしまう。互いを理解出来そうな相手を見出しても全てを理解してしまうが故に、受け止めきれずに拒否してしまい、「語られざる結末」を迎えてしまうばかりでした。
局地的な「奇跡」を発露させ、最悪の結末を回避するといった「ささやかな希望」も描かれてはいますが・・・。
「戦争(人類という集団)が顕わす巨大な暴威の前に、NTと言えど個々人である以上無力である」という大枠のテーマを示すように、人類という種が大きな変革を起こすような物語が描かれる事は無かったのです。
「解放」的なガンダム?
「ガンダム」という物語が、ただの夢物語では語られない「現実主義」的な文脈を保つ意味で、この方向性は重要と見做された一方。物語的に解放されない思いというものが鬱積されていった側面、ファンの感情にもあったように存在していたのかもしれません。
この「解放」的な動向となっていった、とも言えそうなのが「宇宙世紀」に対して、「アナザーガンダム」等と呼び慣わさる「機動武闘伝Gガンダム」以降のテレビシリーズ等。「富野由悠季」氏の手を離れた「ガンダム」でしょう。
新たなファン層を模索する一方、既に「ガンダム」という圧倒的な存在感を持った名称やデザイニングにおいて、試行錯誤が積み重ねられる苦難の時期が続いた中。筆者が「初めてリアルタイムで劇場版も含めてシリーズ完走した」作品となったのが「機動戦士ガンダム00(ダブルオー)」でした。
監督に「水島精二」氏、シリーズ構成と脚本に「黒田洋介」氏を擁し、2000年代終盤から2010年代の幕開けとなった本作は、文字通り「世界を敵に回して」展開していくハードな物語。
「俺がガンダムだ」「模擬戦なんだよ!」「狙い撃つぜ!」「抱き締めたいな、ガンダム!」等、劇中においてですら若干正気を疑われる印象的な台詞を「大真面目に」扱っていく。
ちょうど日本語版の運用が開始された「ツイッター(現・X)」の普及がネットミーム化を促進し、正統的な人気と共に「ネタ要素を含んだカルト的人気」を持った作品となって浸透していきました。
完結編となった『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』は、2025年で公開から15年となります。
この作品では遂に「外宇宙から来訪した知性体と接触を果たす」という「アナザーガンダム」と言い慣わされた中でも一つの極致と言え、「オカルト的」な物語、その意味でも「やや異色さの際立つ」作品として認知されていると言えるかもしれません。
ただ、筆者にはこの「異種との接触」、作中においては「来たるべき対話の時」として200年前に警鐘を鳴らし、それに対する手段として「人類の種として統合した意思決定を実現させる」。そして「人類が進化の階梯を刻む」事で「人類とは全く異なる意思と対話して見せよ」と物語上ほぼ全ての大仕掛けを打った人物の存在。
その結果として物語の刻んだ「(いっそご都合主義的である)美しい結末」が「ガンダムという物語に一つの理想解を打ち立てた」というように受け取られてなりませんでした。
もちろんこれは単なる個人の感想であり「これこそが最適解である」と声高に主張したい訳でもないのです。
しかし、筆者個人はこの物語にいたく感じ入ってしまい、以降作品側から「少なくともNTにまつわる物語では得られまい、ガンダムというコンテンツが公式的にある種”完結”を宣言してしまう事になりかねないので」と納得してしまったのでした。
ちなみに「機動戦士ガンダム00」シリーズは、このように「完結」から2025年で15周年を迎えるという事で、何らかのアニバーサリー等が企画されるかもしれませんので、興味を持って頂けたならこの機会に一見されてみてはいかがでしょうか。
劇場版最新作「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」
ワタシはこうしてオトされました!
劇場版最新作「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」がひねくれ者にもブッ刺さった理由を「ネタバレ覚悟」でお話します!
かくして、ガンダムファンとしては「少々(?)キワモノ」なルートを走って来たと自認する筆者です。
この度公開された劇場版最新作「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX(ジークアクス)-Begining-」は、物語構成として「機動戦士ガンダム」を踏襲した「宇宙世紀」が舞台の作品です。
既に公開された情報として「ガンダム」や「ザク」或いは「シャア・アズナブル」や「シャリア・ブル」といった名称から「一年戦争」の時代が深く関わっている事も分かる人には伝わっている事でしょう。
つまり実を言えば筆者、本作が公開される事を知った時点では「あまり響かなかった」。
映画が始まった時点でも「おおスゴい!きれいな映像の一年戦争だ」と思う程度で、言わば「完全に油断していた」と白状します。「山下いくと」氏リデザインに拠る「ザク」や「ガンダム」の出で立ちや大立ち回りには大興奮してましたが、そこはひとまず横へ置いて。
本編を最後まで見て気付かされたのが、まずこの物語が「前史」としているのが「小説版 機動戦士ガンダム」をベースにした物語であるという点でした。
「小説版~」は「富野由悠季」氏の手に拠る「アニメ放映版とは異なるプロット」の「機動戦士ガンダム」であるとされ、物語の展開が大きく異なるものとされます。
この中で重要なのが「シャリア・ブル」という人物の存在です。この人物は作中のNT研究機関である「フラナガン機関」においてテストパイロットを任された「公認NT第一号」とでも言うべき人物とされます。
若く才に溢れるNTとしては珍しい精神的に成熟した人物ながら、アニメ版では「名のある強敵」として「アムロに撃破」されるだけの役回りとなってしまいます。
ところがこの人物「小説版」では「その死を通じてアムロとシャアの同盟を形作る」という、極めて重要な役割を果たす事となります。
つまり「NT同士の相互理解」と言うには隔たりがあるものの、NTという悲劇の元凶にしかなり得なかった存在が、人類という総体的な存在へ影響する為の「対話」を為す礎となった人物であると言えます。
更に本作では、この「シャア」と「シャリア」の関係を軸としながら「シャアがNTとしての可能性を世界に示し失踪」し「シャリアはそれを目の当たりにしながら生存」するという、新たな基軸で「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」の物語が幕を開けます。
新たなるガンダム
NTという存在の可能性を知り、語り部でありながら、同時に物語の当事者となる「シャリア・ブル」という人物が「ガンダム」という物語の語りきれなかった先を感じる象徴となったのです。
そしてその「可能性」をより強く感じた「本編」となる、「シャリアの生存した一年戦争から5年後」の物語において示された「ガンダムGQuuuuuuX」という「新たなガンダム」の存在。
この「ガンダム」の名を受け継いだ少々歪な出で立ちの機体は、単なる高性能モビルスーツという意味合いのみならず、操縦系に「オメガ・サイコミュ」なるシステムを搭載した試験機であるという触れ込みが語られます。
先の「シャア失踪」という「事件」において、サイコミュの危険性が極めて問題とされている中で「機体の制御系を全てサイコミュで運用」という事を基本思想に置いたと見られる。言わば「禁忌のシステム」となっている操縦系。
起動する事で通常の操縦系を収納し、代わりに「人の両腕」を思わせる操縦系が出現し、まるで「手を結ぶようにして」機体の制御を行うという描写が為されました。
究極や終局などを意味する「オメガ~」を冠した「サイコミュ」、機体と「手を結ぶ」ような操縦系、そして劇中において「ジー・クァックス」と発音された「GQuuuuuuX」という名のガンダム。
これらが筆者の中で結びついた時、思い起こされたのが他ならぬ「ガンダム00」における、最終決戦仕様ガンダム「GNT-0000ダブルオークアンタ」でした。
「GNT-0000ダブルオークアンタ」は「ガンダム00」におけるモビルスーツの駆動機関である「太陽炉(GNドライブ)」が放出する、「GN粒子」を超高濃度で放出する事により、人間の思念や想念を直結してやり取りするという。NT能力の拡大と一般化とも言える機能を搭載した「対話用途(にも使える)」という、史上稀な存在となった「ガンダム」でした。
あくまで個人的な感慨ではあったのですが、この「今までの全てのガンダムを咀嚼し、物語を語り尽くす」とでも言わんばかりの気概と熱量。
それを決意表明するかのように火花を散らす激しさ、煌めきを感じさせる「米津玄師」氏の「Plazma」に乗せて叩き付けられた瞬間、その爽快感に筆者の固定観念は吹き飛ばされていました。
物語の入口として「最も身近で一番難解な相互関係」と言えるであろう「ボーイ・ミーツ・ガール」を描いていた事も正に「爽快」な本作、例えこの感慨が夢に終わろうとも「夢が見れただけで満足」な一時でした。
Begining
「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX(ジークアクス)-Begining-」は「~-Begining-」と謳っているように、本編となるテレビ版の放送が開始されます。
本稿記述中にも動向は上々のようで、4/1日現在でも各劇場で上映されています。興味を持って頂いて劇場まで足を運んで頂ければ幸いに存じます。
また、本作と合わせて見る事で過去のガンダムシリーズも楽しめる事請け合いですので、これを機会に是非1度ご覧になられてはいかがでしょうか!
(C) 創通・サンライズ
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