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明智光秀・天海同一人物説の信憑性を考察

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敗者となったその男は、謀反人の自分を葬り去り、天海と名前を変えて生きつづけ、ついに豊臣の断末魔を見届けた――。
秀吉との戦いに破れて落ちる途上、落武者狩りで討たれたとも、その折に最期を悟り自害したともいわれる明智光秀には、こんな俗説がある。

光秀の生涯については、当サイトの戦史カテゴリの過去記事に他のライターさんによる真摯かつ秀逸な論考があがっているので、そちらをご覧いただくとして、本記事では割愛したい。ここでは「本能寺の変以降の光秀」、すなわち都市伝説めいた光秀・天海同一人物説の真偽のみにスポットをあてる。

目次

そもそも南光坊天海とは?

才知にたけた戦国武将でありながら、謀反により主君を自害に追い込んだ光秀の前半生は謎に包まれている。天台宗の僧・南光坊天海もまた、その前半生には不明な部分が多い。後年、徳川家康が江戸の都市計画に着手した際、風水や陰陽道を取り入れた江戸鎮護を構想し、関東の片田舎にすぎなかった江戸を大郡市に発展させた仕掛け人が天海だったともいわれる。家康のブレーンとして影響力をもちつづけた、幕政初期のキーマンの一人だろう。両者の生年は定かではないものの、同時代の人物であったことは疑いようがない。

史料によると、家康は天海と初めて対面したとき、あたかも旧知の仲のように親しげに語り合っていたという。人払いをしてまで初対面の人間と話しこむことなどなかった家康だから、家臣たちは不思議に思ったと記されている。
天海はその後、秀忠、家光の三代にわたって徳川家に仕え、徳川幕府の多くの政策に関与。高名な僧侶であるにもかかわらず史料が乏しく、出自も定かではない人物が将軍の懐刀となり、しかも僧階の最高位である大僧正にまで昇りつめたのだから、「怪僧」の異名がこれほど似合う人物もいないのではないだろうか。

光秀と天海、二人の前半生がともに謎に包まれているところが、光秀=天海説の土壌になったともいえる。とはいえ、これだけで「説」が生まれるはずもない。二人の生涯には、同一人物を匂わせる奇妙な符合や偶然がいくつかみてとれるのも事実なのだ。
大正5年(1916)に発表された須藤光暉著『大僧正天海』には、「光秀は天海となり、豊臣家を滅ぼして、うらみを晴らした」と主張する研究家の存在が記されており、同一人物説は大正時代から唱えられていたことが確認できる。

同一人物説が生まれた理由

栃木県日光市には、華厳の滝をのぞむ風光明媚な観光スポット、明智平がある。天海の墓所のひとつであり、伝承によれば、名づけたのは天海。明智の名を地名として残そうとした可能性もあるが、あくまでも「伝承」だ。

また、光秀の居城があった近江坂本の慈眼堂にも天海の墓所がある。なぜ天海がこの地に眠っているのかを考えると、何やらつながりを感じさせる。とはいえ、坂本には天台宗総本山の比叡山がある。天海が比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力したことを考えれば、同地に墓所があっても不思議ではないだろう。仮に「光秀=天海」とするならば、焼き討ちに貢献し、復興に尽力したのが同じ人物ということになる。

そして、「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた天海。ここには鎧姿の天海が登場する。天海が実際に関ヶ原の合戦に出陣したかどうかは不明だけれど、この武者姿の天海こそ光秀その人だとみる向きもある。その一方で、屏風の絵図は後世の模写とも伝えられていることから、創作性を感じる人も多いようだ。

また、比叡山の天台宗松禅寺には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。光秀が敗死した天正10年(1582)の33年後に寄進されたことになるが、この石灯籠こそ生きながらえた光秀が豊臣家の滅亡を祈願して寄進したものといわれている。しかし、この件についても寄進者が「明智」光秀であることを裏づける証拠はない。大坂の陣で豊臣家が滅ぶのは同年5月のことだ。

このようにさまざまな理由が並ぶなか、もっとも有力な根拠とみなされているのが、「日光東照宮にある桔梗紋」ということらしいのだが――。
東照宮に桔梗紋?

「裏切り」の象徴、明智の桔梗紋

明智家の家紋といえば桔梗。驚いたことに、「日光東照宮には桔梗紋がある」という情報がネット上に目立つ。サイト閲覧者は十中八九、真に受けてしまうだろう。結論をいうと、彼らが桔梗紋と言っているのは桔梗紋でははない。百歩譲って、仮に桔梗紋だとしても、それが光秀=天海説の傍証にはならない。桔梗紋を使用していたのは光秀だけではないのだから。

桔梗紋と誤解されているのは陽明門の随身像の袴の紋と、鐘楼の壁などの装飾の紋。桔梗紋というのは、花弁の先がツンととがっているのが特徴。一方で、陽明門の袴の紋は木瓜紋(もっこうもん)とする見方もあるらしく、織田家の織田木瓜と似ているため、むしろ信長との関係性が気になる人もいるようだ。確かに織田木瓜と似ているけれど、おそらくこれらは家紋ではなく、単なる装飾用の文様ではないかと筆者は思う。あちらこちらの神社の随身像が同じ文様の袴をはいているので、公家の服装などに用いた装飾のひとつで、深い意味はない気がする。

「光秀=天海」の可能性は低い

ここまでみてきたように、光秀=天海説の根拠はどれも決定的な裏づけに欠けており、推測の域をでないと言わざるをえない。
二人の書状の筆跡を比較するという踏み込んだ検証もなされているが、「非常に似ている」「似ていない」と感想は見事に分かれている。個人的には、文章全体をながめたときの印象は似ていると思うけれど、個々の字をピックアップして比較すると書き方の違いが際立ってみえる。やはり「光秀=天海」は成り立たない、と自分のなかで結論づけたあとで、とうの昔にテレビ番組で筆跡鑑定が行われており、別人と判定されていたことを知った。

長きにわたって光秀・天海同一人物説が唱えられ、小説の材にもなってきたのは、やはりそれだけ魅力のある俗説だからだろう。けれど、ノンフィクションとしての歴史と向き合う場合には、まずその事柄が事実なのか、どのくらい信憑性があるのか、そこだけは慎重になる必要がある。前提となる事柄が誤情報や創作では、推論を重ねても核心から遠ざかるばかりだからだ。
今も議論が絶えない歴史の謎は数多く残るけれど、どれほど謎に包まれていようと、歴史にはひとつの事実しかありえない。

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