昔話といったら何を思い浮かべますか?
おそらく真っ先に思い浮かべるのは桃太郎やかぐや姫、花咲じいさんなど子供の頃、よく聞いたお話でしょう。
しかし昔話にはその土地ならではのお話、それこそ地元の人でも知らないようなマイナーなお話もあります。
そのなかには戦国武将の名前も出ているんですよね。
というわけで、今回は「戦国武将も出てくる地方の昔話(東北編)」を取り上げていきたいと思います。
盛岡の虎、ランギク丸とボタン丸
南部藩二代藩主・南部利直は徳川家康から2匹の虎を下賜されました。
理由は大坂の陣で徳川方について戦ったからそうですが、一説によればカンボジア国王から贈られた虎の扱いに困って利直に与えたとも言われています。
さて、この2匹の虎はオスとメスで、オスはランギク丸、メスはボタン丸と名づけられました。
南国生まれの虎のため、盛岡(不来方)城でもあたたかい東側の梅林に鉄の檻をつくって飼育されることになりましたが、ランギク丸もボタン丸も人間に馴染むことはありませんでした。
虎番たちも大抵は虎の世話を嫌がりましたが、かための小六というマタギだけはいつか虎たちが猫のように馴れる日が来るようにと親切に世話をしていました。
けれど虎たちが来てからというもの、城下の人々は嘆き悲しむばかり。
というのも虎たちのごはんのため、馬や牛はもちろん、犬すらも取り立てられたからです。
それから10年の年月が経ったある日、なんとランギク丸が脱走します。
ランギク丸は城下で暴れに暴れたため、最後は利直直々に撃ち殺されてしまいました。
残ったボタン丸は本丸から正伝寺というお寺へとうつり、小六も止められなかったランギク丸の分まで尽くすようにボタン丸の世話を続けます。
やがて藩主が利直から重直から変わると、ボタン丸のごはんに人間が加わりました。
切支丹です。この頃、切支丹の弾圧はすさまじく、また虎のごはんのための生餌の調達も厳しくなっていたからです。
ボタン丸が本当に切支丹を食べたのかどうかは諸説ありますが、いずれにしてもボタン丸の最期は1匹のマタギ犬・ヨヅによって締めくくられます。
ヨヅは雫石のマタギ助松を助けてきた犬で、同じくマタギの小六はヨヅを見ただけで名犬だと気づいたそうです。
そんなヨヅはボタン丸の檻に放り込まれると、近づいてきたボタン丸に怖気ることなく、真正面から向かい合い、戦いました。
その結果、ヨヅはボタン丸の喉笛に噛みつき、ボタン丸はヨヅの体を引き裂きました。
ボタン丸とヨヅの亡骸はランギク丸の亡骸とともに城の東南に埋められ、そこは「虎が石」と呼ばれたそうですが、今はどこにあるか分かりません。
また虎たちの皮は剥がされて、参勤交代の装いで使われたとも言われています。
なお最後まで虎たちと一緒にいた小六はというと、ボタン丸のあとを追うように息を引き取ったそうです。
お稲荷さんになった山形の家来、喜太郎稲荷
その昔、山形の天童は里見というお殿様がおさめていました。
里見家には頼直というお殿様がおり、喜太郎はその頼直に奉公していた召使い(あるいは足軽)だったそうです。
さて、喜太郎はある日、頼直とともに京都へ出かけていきました。
京都につくと喜太郎は伏見稲荷へお参りに行ったのですが、鳥居の下にはたくさんの狐の子供たちが集まっていました。そして何やらわいわいと騒いでいるのですが、どうやら鳥居を飛び越えようとしているようです。
そこで喜太郎が尋ねたところ、この鳥居を飛び越えれば正一位の位をいただけるとか。
それを聞いた喜太郎は笑いながら、持っていた笠を鳥居の上へ放り投げました。
すると喜太郎は狐の精にとりつかれて、正一位という立派な位を持ったお稲荷さんになってしまいました。
それで喜太郎がどうなったかというと、国元で里見家に祀られ、里見家の守護神として迎えられました。
里見家は戦国時代、最上義光で知られる最上家に滅ぼされたものの、伊達政宗のところまで家族とともに逃げられたとか。
その戦いには喜太郎の助太刀があったと伝えられており、たとえば立谷川を渡ろうとした最上軍を濁流が起きたように化かし、川を渡らせないようにしたり。
城を脱出した当時の里見家のお殿様・頼久とその一行が峠を越えようとしたところ、夜闇で迷っていた時に狐火をともして助けてくれたりしたそうです。
つれづれなるままに
ランギク丸とボタン丸、そして喜太郎稲荷。
この2つの昔話の共通点は戦国武将だけでなく、歴史的根拠が存在しているということです。
たとえばランギク丸とボタン丸に関する文献は記述に差はあるものの、たしかに存在しています。
喜太郎稲荷もそのまんまですが「喜太郎稲荷神社」という神社がありますし、お話に出てきた里見家と最上家の合戦もまたしかり。
ちなみに南部利直は盛岡藩初代藩主で、重直はその息子、いわば二代目ですね。
利直公は安土桃山時代と江戸時代の混乱期を生き抜いた大名でした。
生まれたのは天正4年、まだ本能寺の変が起こる前ですし、名前の「利」も烏帽子親をつとめた前田利家の名前からさずかったとか。
なのにそれぞれのお話は全国的に有名ではないか?といったら
- 体裁が悪く(切支丹の弾圧や敗北者の歴史)、語り継ぐことをよしとしなかった
- 幕末のいざこざで敗者というレッテルをはられたから
- 第二次世界大戦など戦火で語り継ぐことが廃れた
- 史実に基づいた昔話だったため、おいそれと口に出来なかった
など色んな理由が考えられますね。
とはいえ2つの昔話は共通点はあれど、雲泥の差があります。
それは親しまれているか、いないかです。
喜太郎稲荷はご当地で愛されており、天童市には3社もお社があるようですが、ランギク丸とボタン丸は盛岡市材木町にある和菓子屋さん「山善」で虎をイメージしたどら焼きがあるだけのようです・・・美味しそう。
その原因は想像をめぐらせるまでもなく、きっと忘れたかったんだろうと思います。
切支丹の弾圧、当時は1つの財産だった牛・馬・犬の取り立てなどなど。
そんな背景はなく、神通力を授かってお殿様を助けた元人間なお稲荷様のほうが親しまれるのは当然でしょう。
でも苦しかったから、忘れたいからという理由で語り継がずにいるのはきっと人間と同じく苦しかった虎たちに失礼だなとしんみりもします。
あえて語り継がずにいることも大事ですが、そのさじ加減が難しいですね。
※画像はイメージです。
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