歴史上の人物で、アスペと思われる人がいますよね。
鍋島閑叟もそうなんじゃないかと思ってご紹介します。
肥前佐賀藩がいつ官軍になったか?
明治維新で官軍といえば、「薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前佐賀藩」を略して「薩長土肥」の連合軍とされます。
薩摩、長州、土佐についてはよーく知っているでしょう。
しかし肥前佐賀藩がいつ官軍になったか、よっぽどの歴史ファンも説明できないのではないでしょうか?
実は鳥羽伏見の戦い後、こっそりと官軍になり、その後の戊辰戦争で大活躍したんです。
なんでこんなことになったかと言えば、藩主がちょっと変わっていたからなんです。
肥前佐賀藩の藩主は鍋島直正53歳、正確に言うと隠居して閑叟と号していたけどまだ実権を握っていました。
閑叟は、17歳の時に10代藩主に就任し、初のお国入りをすることになりました。
しかし江戸末期になると、肥前佐賀藩は首が回らんほどの借金を抱えていました。
殿様の初のお国入りと言うのに、借金取りが江戸藩邸に押し寄せて来たため行列は途中で止まってしまい、先頭に近い閑叟の駕籠は品川で足止めを食ったのです。
何とか借金取りを説得して行列は動き出したものの、閑叟は悔しさで泣きじゃくったと言われています。
江戸時代は260年続きましたが、どの藩も早くから赤字経営となり、藩政改革を行いました。
節約から始まり、米以外の地場産産業や密貿易で利益を得て経済を立て直した藩が幕末に台頭し、倒幕運動を展開したのは当たり前と言えば当たり前でしょう。
閑叟はものすごく頭の切れる人
閑叟はものすごく頭の切れる人だったため、もちろんトップダウンで藩政改革を行い結果を出しました。
そして藩校を作って藩士たちを全員、6歳から25歳くらいまで強制的に大学教育を受けさせたわけです。
よい成績を挙げないと家禄を減らされるという、出来ない子には地獄のような教育です。
ちなみにここは「葉隠れ」という「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な武士道の精神論発祥の地であることと、藩主閑叟が藩の中で一番頭がよかったということで、藩主に逆らえる人はなく独裁体制です。
閑叟は、オランダ語の本も読み、藩校のエリートたちを精錬方にして、当時の最先端技術を導入して蒸気機関車を作らせたり、アームストロング砲も作らせたといわれています。
もちろん、アヘン戦争後、日本のインテリは海防意識に目覚めていましたから、閑叟は西欧式の軍隊も作り、アームストロング砲だけでなく火器も揃えておりました。
この時代、資金も豊富でこれだけ先進的な軍備を揃えていたら、京都で活動したりして倒幕運動に関わるか、幕府に肩入れするかどちらかだと思うんですが、閑叟はなんと鎖国時代の日本国内でさらに藩士に他藩との交際を禁じて鎖国していたんですよね。
薩摩や長州藩士が奔走していた頃も、京都藩邸にはわざと無能な藩士を派遣して関わらないようにしたそうです。
ただ、閑叟は文久2年に上京して関白近衛忠煕に京都守護職への任命を要請したんですが、言い方が悪かったらしくて薩摩藩の妨害にも合い立ち消えになってます。
アスペ気味でコミュ障?
閑叟、アスペ気味でコミュ障だと思うのは私だけでしょうか。
案の定、江戸城や京都でも「肥前の妖怪」「二股膏薬」と呼ばれて評判悪かったようです。
鳥羽・伏見の戦いは藩主も家老も京都に不在だったので不参加。
薩摩藩から賀征伐の声が挙がったくらいでしたが、閑叟は花見に行った京都嵐山で偶然木戸孝允と会い、木戸のすすめで肥前佐賀藩兵も新政府軍に参加することになり、めでたく薩長土肥となったのです。
佐賀藩は、鎖国していたために尊王攘夷運動での犠牲者が一人もなく、明治新政府で活躍する人材を輩出しました。
また、閑叟の一律教育に反発した大隈重信は、早稲田大学という反骨精神を持った学校を創設したのです。
そういうわけで、肥前佐賀藩が明治後に果たした役割は大きく、それは閑叟の行った改革や教育のおかげでもあるのですが、それは結果論というものでしょう。
そもそも閑叟はこれだけの最新兵器を備えた軍隊やインフラを作り上げて何がしたかったのか、これがよくわからないんです。
鍋島閑叟、おそらくは高機能自閉症とかサヴァン症候群とかの天才気質でコミュ障だったんじゃないかと思うと、なんとなく納得できるなと思う次第であります。
featured image:川崎道民, Public domain, via Wikimedia Commons
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