軍事史、殊に日本においてその分野に興味を持っている方々であれば、かつての大日本帝国が太平洋戦争で敗戦する前までに、自国が戦争遂行に必要だと考えた各分野の研究を行った機関が幾つか頭に浮かぶだろう。
特に大日本帝国陸軍の傘下である組織ににその範囲を絞った場合、その研究内容の特殊性や作家・森村誠一氏の著作によってその名が一気に広まった通称・731部隊(関東軍防疫給水部)が有名かも知れない。しかしここで今回ご紹介をしたいのは、日本本土の神奈川県は川崎市多摩区の東三田に置かれていた大日本帝国陸軍の研究機関であり、今日では通称として登戸研究所と呼称されている組織になる。
登戸研究所と言えば、ふ号作戦・風船爆弾を用いたアメリカの本土攻撃を実現した機関としてよく知られていると思うが、それ以外の取り組みについても及ばずながら紹介して見たいと思う。
登戸研究所の設立経緯及び組織の内容
登戸研究所の源流は、大日本帝国陸軍内に置かれた陸軍火薬研究所まで遡る事が出来、これが1919年4月に陸軍技術本部の直轄の機関として組織改編を経て、陸軍科学研究所となった事に端を発する。
陸軍科学研究所は設立より4年後の1923年には組織の拡大が行われたが、更にそこから10年後の1933年には火薬及び爆薬の研究を行っていた部署は陸軍造兵廠に移され、1939年に新たな内容を扱う部署として登戸出張が設置された。
この登戸出張所こそが後の通称・登戸研究所となる組織だが、1941年に登戸出張所は陸軍技術本部第9研究所となり、更に翌年の1942年には第九陸軍技術研究所となって1945年8月の太平洋戦争の敗戦まで続いた。
こうして正式名称・第九陸軍技術研究所、通称登戸研究所は出来上がったが、1944年時点での組織の構成は、責任者の所長に陸軍少将を据え、その元に庶務課、第一科から第科までの4つの科が配されていた。
登戸研究所で実施された研究の内容は、第一科が諜報活動に向けた無線の通信機及び探索用の機材、電話の盗聴機材、そして今日で言う指向性兵器として電波兵器・怪力光線、最も高名な風船爆弾などであった。
第二科では諜報活動に用いる為の特殊なインクや、盗撮用の様々な形式のカメラ、毒物や各種の細菌やウィルスを用いた生物兵器、そして缶詰爆弾が有名だが偽装された特殊な爆弾や時限信管などの研究が行われた。
第三科では当時の中国大陸で使用されていた中華民国の発行する紙幣の偽造や、国際的な各種の証明書類の偽造(パスポートなどを含む)を行っており、第一科や第二科と比較するとかなり地に足の着いた内容だと思える。
第四科では特段の研究は実施せず、主として第一科及び第二科が開発を手掛けた各種機器の試作やそれを用いた実験と、それらの製造に従事する工場の管理・監督を行っていたとされる。
登戸研究所で開発され、実際に使用された兵器
登戸研究所で開発され実際に使用された兵器と言えば、まずは何といっても有名なのが風船爆弾であると思われるが、風船爆弾という呼称は太平洋戦争後に日本のマスメディアが使用したもので、軍では気球爆弾と呼称していたようだ。
風船爆弾に用いられた気球は直径が凡そ10.0メートル、重量が凡そ200キログラム程のもので、気球自体はコウゾから作られた和紙を5枚重ねて蒟蒻糊で接着し、仕上げに表面に水酸化ナトリウムを塗布して制作された。
こうして作られた気球の内部に水素ガスを充填し、爆薬としては爆弾(15キログラム)を1発と焼夷弾(5キログラム)を2発搭載する仕様となっており、アメリカ本土に爆撃を行う目的で開発が行われた。
風船爆弾は千葉・茨城・福島の沿岸部の基地を拠点として、1944年11月から翌1945年3月までの5ケ月で凡そ9,300発が放たれ、その内の少なくとも300発程はアメリカ本土に到達し、オレゴン州では民間人6名の死亡が確認されている。
続く登戸研究所で開発され実際に使用された兵器としては、まあ厳密には兵器とは言えないかもしれないが、中華民国の発行する紙幣を当時の価格で凡そ40億円分程偽造し、内凡そ30億円程を市場に流通させた「杉作戦」の偽紙幣がある。「杉作戦」による偽紙幣の製造は1941年以後に本格的に行われ、中国の上海で実際にそれを用いて金や貴金属や食料を購入する松機関が活動を行い、当時の中国大陸で貨幣経済を大きく混乱させる要因のひとつとなった。
研究が行われたが実用化はされなかった兵器 怪力光線
前述した風船爆弾や中華民国の発行する紙幣の偽造は、登戸研究所が手掛けて実際に使用された事が確認されているものだが、それ以外は大半が企画・研究の段階で実用化はされておらず、アイデア・レベルのものも多い。
そんな登戸研究所で研究されながらも実用化されなかった兵器の一つに怪力光線があり、怪力(かいりき)の当時の発声・表記である「くわいりき」から「く号兵器」と呼称されていたと伝えられている。
この怪力光線・「く号兵器」は今日で言う指向性兵器の一種であると目され、この当時にラジオ放送局のアンテナの周辺で照明が勝手に点滅をしたり、自動車のエンジンが急に停止するなどの例が報告されていた事に着想を得たとされる。
大日本帝国陸軍ではこうした事象はラジオ放送局のアンテナから発せられる電波によるものと見て、それを兵器に転用し生物に浴びせる事でその殺傷を行う兵器として研究を登戸研究所で行わせていたと伝えられている。
但し当時の登戸研究所の持てる技術を投入したものの、強力にした電波であっても兎のような小動物を殺傷するのも数分間もの時間を要する為、兵器としての実用化は困難だと判断されたと考えられている。
研究が行われたが、実用はされなかった兵器 電気投擲砲
続いて登戸研究所が研究には取り組んでいたものの、実用化には至らなかった兵器としては電気投擲砲なるものもあったと言われており、これは今日で言う物体を電磁気力(ローレンツ力)で射出するレールガンの一種であろう。
この当時の登戸研究所が取り組んでいた電気投擲砲は、射出する砲弾に翼を取り付け、そこにレールを設けた造りだったと伝えられており、今日のレールガンとは物理的な電磁気力(ローレンツ力)を用いる点は共通だが厳密には異なるように思える。
しかしこの時代にレールガンのようなものを日本が開発しようとしていたと聞くと驚かれる向きもあるかも知れないが、レールガン自体の原理は1840年代には机上では判明していた為、第二次世界大戦時には日本以外にドイツも研究を行っていたとされる。
但し今でもレールガンの実用化の大きなネックであるとされているのが、使用する為には膨大な電力の供給が必要になると言う点で、当時の技術力ではレールガン1門の稼働に軽く専用の発電所が必要となると試算された。
よって日本でもドイツでも第二次世界大戦時にはレールガンを実用化する事は当然出来ず、今の日本の防衛装備庁が開発中のレールガンにおいてもその電源の確保と如何にして連射を可能にするのかが課題と目されている。
他にも登戸研究所が研究を行っていた兵器には、「う号兵器」なるものもあったと伝えられており、これは人工的に任意の空域に雷雲を発生させる装置であり、アメリカのB-29戦略爆撃機等による絨毯爆撃を回避する目的で企画されたと言う。
当然この「う号兵器」も実用化は出来なかった訳だが、これも今の時代であってもとても実現できる装置であるとは思えず、何となく人工地震などの陰謀論的な兵器の匂いを個人的には感じてしまう。
登戸研究所の意義
今回は大日本帝国陸軍の中にあって様々な分野の兵器開発を行っていた登戸研究所について、その中で実際に使用された風船爆弾や紙幣偽造、そしてアイデア・レベルで終わった怪力光線や電気投擲砲などを紹介してみた。
費用対効果と言う観点から考えてみたいものだが、あいにく登戸研究所自体がどの程度の予算が投下されていたのかを確認できるような資料が見当たらず、最盛期には凡そ1,000名規模の人員が投入されていた模様である。
最も有名で且つ大規模に実行に移された物理的な攻撃の事例は凡そ風船爆弾のみであり、これについてもアメリカに与えた被害は微少な事から、攻撃としては無意味だったと見做す言説も多々目にする。
しかし当の大日本帝国陸軍でも風船爆弾によって物理的に大きな損害をアメリカに与える事を企図していた訳ではなく、その攻撃によってアメリカ国内の厭戦機運を高める事を狙ったもので、無意味説は的外れな指摘にも思える。
『慶應義塾百年史』 中巻(後), Public domain, via Wikimedia Commons
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