江戸時代の落語には実際の事件をもとにしたもの、実在の人物をモデルにしたものが多く存在します。
その中でも希代の悪女が暗躍する落語は人気を集め、寄席に詰めかけた客たちを熱狂させました。今回は江戸落語の題材になった、怖くて魅力的な悪女たちを紹介していきます。
母親と共謀し下女に夫殺しを命じた白子屋お熊
享保11年(1726年)10月17日、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」で事件が発生しました。当時16歳の下女・きくが、白子屋の婿養子・又四郎の首を剃刀で切り付けて揉み合いとなり、彼の頭部に怪我を負わせたのです。
その後の取り調べにて、又四郎の妻にして白子屋の娘であるお熊の関与が発覚。
実際の所、お熊と又四郎の夫婦仲は冷え切っていました。
白子屋が日本橋一の美人と評判の娘を又四郎と結婚させたのは、資産家の倅を婿に取り、まんまと手に入れた支度金で店の経営を立て直す為。
二人の間に愛はなく、お熊は結婚後も夫を疎んじ、手代の忠八と関係を持っていました。
この密通を手引きしていたのが古参の女中・ひさ。さらに驚くべきことに、お熊の母は娘の不倫を知りながら黙認していました。早い話が店ぐるみでお熊の火遊びに加担していたのです。お熊と忠八は十代の頃から交際していたので、その意味では公認の間柄だったのかもしれません。
やがてお熊は夫と別れ、愛人と添い遂げたいと考え始めます。が、離縁すれば彼が工面してくれた金を返さねばなりません。そこで又四郎を病死に見せかけ葬り、借金を帳消しにして忠八と再婚する計画を立てたのでした。
又四郎殺害計画には実行犯のきくを除き、お熊・母親・愛人・女中の計四人が関わっていました。
当初お熊達は毒殺を予定し、出入りの按摩・横山玄柳を欺き、又四郎に毒を盛らせました。されど又四郎は体調を崩すに留まり、それもたった数日で回復します。計画失敗に焦ったお熊は、きくを脅して又四郎殺害を仕向けたものの、これまた食い止められて頓挫します。
奉行所に捕まったきくが真相を自供したのち、すぐさま関係者が連行されました。その後直接の下手人のきくと主を唆したひさには死罪が言い渡され、お熊と忠八は市中引き回しの末獄門に。お熊の父親である白子屋店主は江戸所払いに、母親は島流しになりました。
処刑当日のお熊は白無垢の襦袢に黄八丈の小袖を羽織り、水晶の数珠を首に掛けた装いで経を唱え、観衆の前を堂々と横切っていったそうです。享年23歳でした。
お熊の事件は『近世江都著聞集』や『享保通鑑』で取り上げられ、人形浄瑠璃『恋娘昔八丈』のヒロイン・白木屋お駒や、落語家・春錦亭柳桜の人情噺『仇娘好八丈』のモデルとして、後世に語り継がれました。
寺小姓に恋焦がれ実家に放火した、八百屋お七の哀しき末路

次にご紹介する八百屋お七もまた、江戸を代表する悪女として評判を取りました。
お七は寛文8年(1668年)、江戸駒込に生まれます。実家は八百屋を営んでおり、お七も家業を手伝っていました。ところが天和2年(1683年)12月28日、天和の大火が起こります。この火事によって焼け出されたお七一家は、近所の寺「正仙院」に避難しました。そこで寺小姓の生田庄之介と運命の出会いを果たし、瞬く間に恋に落ちます。
若い二人の恋は燃え上がったものの、復興がすんで店が再建されると、寺を引き払わざるを得なくなりました。
寺小姓と八百屋の娘ではもともと住む世界が違います。逢引も簡単にはいかず、親の目があっては文すら交わせません。お七は日に日に庄之助への想いを募らせ、思い余って実家に放火しました。「また家が燃えれば庄之助様に会える」と考えたのです。
幸いすぐ消し止められボヤですみましたが、お七は付け火の罪で捕まり、厳しい詮議の末鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。
お七の事件は井原西鶴『好色五人女』や落語の『八百屋お七』に取り上げられ、江戸っ子たちの涙を誘いました。庄之助の名前は吉三(きちざ)に改変されています。
お七がただの考え足らずの小娘だったのか、金輪際恋人に会えぬと思い詰め自殺を企てたのか、後世でも意見が分かれているのが面白い所です。
前提として、彼女は下町商人の娘。家業を手伝っていたのなら世間知らずとは言えず、適齢期の17にさしかかり、嫁入りの話が持ち上がってもおかしくありません。「家が燃えれば寺に戻れる」というのは短絡的すぎるので、自殺未遂の可能性が高いのではないでしょうか?
なお、八百屋お七は丙午の女とされています。これは『好色五人女』の記述をもとにしており、「丙午の年に生まれた女は気性が荒く男を食い殺す」という、迷信が広まるきっかけになりました。
次々と男を手玉にとる、才色兼備の妲己のお百
続いて紹介するのは宝暦年間に実在した妲己のお百。
お百は京都九条通の貧しい家に生を受け、12歳で祇園の色茶屋に売られ、14歳から客を取り始めました。
やがて大阪の富豪・鴻池善右衛門に身請けされたお百は、儒学・仏教・詩歌・連歌・俳諧に幅広く通じ、大層可愛がられたと言います。その才色兼備ぶりは古代中国の妲己や玉藻の前にたとえられました。
ある時のこと、江戸から役者の津打門三郎が上京してきます。男好きで面食いなお百は妾の身にもかかわらず門三郎と恋に落ち、二人の密通を知った善右衛門は嫉妬に苦しんだ末、世間体を考えて怒りをおさめ、泣く泣くお百と門三郎を夫婦にしてやりました。
その後江戸に移住した門三郎・お百夫婦ですが、遊女上がりのお百は子供ができないまま、門三郎に病気で先立たれます。若い身空で未亡人になったお百は、今度は門三郎の兄・松本幸四郎に色目を使うものの、「弟の嫁と寝る気はない」と家を追い出されてしまいました。
以降もお百の淫乱は直らず、色茶屋の後妻に入っては浮気を繰り返し、そのたび離縁され別の店主に身を任せ、最後は佐竹藩家老・那珂忠左衛門の妾に落ち着きます。
この那珂忠左衛門こそ『秋田杉直物語』で悪役に仕立てられた、佐竹藩における秋田騒動の首謀者。
世間の人々は生まれ育ちの卑しいお百を侮り、武家のしきたりに馴染めるわけないと高を括っていました。が、その予想はあっさり裏切られます。『列藩騒動録』の著者・海音寺潮が「昨日までの風俗に引き替え 武家の妻の行儀をたしなみ まことに気高く いみじきこと言うばかりなし」と褒めたたえたように、お百は武家の奥方たちに香を指南し、歌舞伎や浄瑠璃、果ては男遊びの享楽を教え、那珂の主君である佐竹義明に妾として妹分を推薦しました。
那河の陰謀が失敗に終わったのち、お百は「無関係の奉公人です」と申し開きをし、享保の打ち壊しで襲撃された悪徳商人・高間伝兵衛の甥、高間磯右衛門に嫁いだと伝えられています。
時代の徒花と散った、艶やかで美しい江戸の悪女たち
以上、江戸を代表する悪女たちの生き様を紹介しました。皆さんはどのエピソードが一番印象に残りましたか?個人的には母・愛人・女中を抱き込んで夫殺しを図った、白子屋お熊の大胆さに戦慄を禁じ得ません。
処刑当日のお熊が八丈島名産の黄八丈を身に付けたことで、江戸の女性の間に黄八丈ブームが起きたのも皮肉。
他にも『ゴールデンカムイ』の蝮のお銀のモデルになった鬼神のお松、11代将軍・徳川家斉に取り入って父親を出世させたお美代の方など、江戸っ子の心を掴んだ悪女は数多くいます。次の機会があれば、彼女たちの解説もしてみたいですね。
※画像はイメージです。


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