私は漁師町出身で、子供の頃から「海にもっていった弁当を残したら、海に捨てていけ」と言い聞かされていた。
その話をしようと思う。
海の幽霊
「海にもっていった弁当を残したら、海に捨てていけ」
そう語ったのは、老いた漁師だった。一日中海で遊んでいたかった幼少期の私がアルミホイルに包んだ握り飯を食べているのを見ての忠告だ。
老いた漁師はこう続けた。
「海で死んだ連中は飢えている。そいつらの前で飯を食うってだけで恨めしがられるもんだ。その上、残った飯まで持ち帰られたらお前さんだって頭にくるだろう」
「飲み物も捨てていけ、水筒に残った水にゃぁ、霊が入ってくるぞ。海で死んだ霊は水に憑くからな」
私はそれが恐ろしくなり、海に食い物を持っていく事はなくなった。知らずに霊をつれてくるのも、勝手に霊の恨みを買うのもひどく恐ろしかったからだ。
水辺に霊は憑く
今になってみると、あの漁師が言っていたのは正しかったのだとわかる。もちろん、幽霊がいて祟られる、呪われるといった話ではない。
水筒の水である。蓋がコップになっている水筒も多いが、直接水筒に口をつけて飲むタイプのものも多いだろう。
海、特に夏の海は照り返しも強く、日陰におかなければ飯も水も腐りやすい。直接口をつけて飲んだ水筒なら尚更で、少しおいただけでもたちどころに雑菌に溢れてしまう。海へ持っていった飲食物はきちんと保管しておかなければ腐敗するから、迂闊に持ち帰り食あたりを起こすくらいなら捨てた方が安全だ。
昔、海で食べ残した弁当や水を持ち帰り食した後、具合が悪くなり寝込んだ者も多かったのだろう。死者も出たのかもしれない。よもや、それが腐った水の仕業とは思わず、霊が恨めしんで呪ったのだと囁かれたのも想像に難くない。
そもそも、俗説は忠告が多分に含まれている。幽霊が出るという廃屋は大概、崩れて危うい場所や薄暗く黴、ダニなどが多い場所にあり、河童が出ると言われた川辺はいわずもかな危険な場所だ。
俗説の多くは危険を遠ざける為の知恵であり人々の集合知だったのだろう。
それでも、水に霊は憑く
海に持参した飲食物を持ち帰ってはいけない。その理由が単純に、食べ物が腐敗する危険性についての忠告である、そう思っても良いだろう。だが私は、奇妙な因果に遭遇した事がある。
それは、ある漁師の話だ。彼は朝早くに漁を行うため、朝飯は専ら弁当だった。船上で仕事をする前に持ちこんだ弁当で腹ごしらえをし、食べきれなかった分を持ち帰って昼飯として食べるのだ。寂れた漁師町で古い言い伝えの影響が色濃く残っていた土地だから、彼を意地汚いと誹る漁師もいた。海の霊を怒らすとも言われた。実際、何度か食あたりもおこし寝込んだ事もあるようで、その都度他の漁師から意地汚さを呆れられていた。
件の漁師が老齢になり、いよいよ死の淵が見えて来た頃、私は地域の相談役として独居老人の様子見を行っていた時期がある。その時、件の漁師は異様な身体をしていた。肌は黒ずみ丸々と肥えていたのだが、太り方が異質だったのだ。全身が浮腫みゴムまりのようになった姿は、どこか水死体を思わす風貌だった。それだというのに、彼は水を飲み続けた。飲み続けますます肌は膨らみ、酷い浮腫を見せるようになったのだ。
程なくして件の漁師は死んだ。見つけた時はすでに事切れており、心不全と言われていた。だが、迷信深い漁師の間ではしばらく「海の霊にとり殺された」なんて噂がまことしやかに囁かれたものである。
俗説は俗説、言い伝えは言い伝えでしかない。だが時に、ただそれだけで切って捨てるには奇妙なことがおこるのも、また事実である。
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