10月に岩手旅行に出かけた。
『奥の細道』で名高い「光堂」、すなわち平泉の中尊寺金色堂を見に行く事が目的である。
別に、松尾芭蕉が大好きという事もないのだが、フェリーで仙台旅行に何度か行った時、「金色堂が移動圏内だなぁ」と思っていたのである。
宿は一ノ関に取ったのだが、この地域には、「鬼死骸」という、YouTubeなら広告を剥がしそうな名前の地域が存在する。
鬼死骸由来
「もう少し何とかならなかったのか」と思いもするが、これはそのまま「鬼の死骸」に関する伝承が元になっている。
昔、初代・征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため、東北に派遣された。彼は、その遠征の最中、岩手山に棲み、辺りを脅かしていた鬼「大武丸(おおたけまる)」を討伐したという。
その際、証拠としてその巨大な死骸を持ち帰り、人々に見せた後、一関の辺りに葬った。
迂闊に掘り返さぬようにと、「鬼石」や「肋石」などを置いて目印にした。
以来、人々は一関から三関辺りの地域を鬼死骸と呼び、明治維新後に鬼死骸村を名乗るようになった。
その後、1875年の村落統合で牧沢村と合併し真柴村となり、合併を繰り返し、真滝村、一関市となったが、通称として鬼死骸の地域名は残っている。
作り話にも元ネタはある
種を明かすと、坂上田村麻呂の鬼退治は、史実に基づいた話ではない。
江戸時代に『田村三代記』「田村語り」などに結び付いて出来上がったものだという。
田村語りというのは、坂上田村麻呂が元ネタの「坂上田村丸」という人物の伝説や説話である。
坂上田村麻呂伝説は、東北ではポピュラーなもので、つまりは「弘法大師がケチな村の芋を固くした」とか「安倍晴明が湧かせた井戸」とかと同類である。
ただ、これが単なる作り話かといえば、そうも言えない。
恐らく、由来不明の「鬼死骸」という地名に、坂上田村麻呂伝説をこじつけたと考えるのが妥当だろう。
鬼と称される何者かを討伐し、葬ったという事実があったとして、これはなかなか範囲が広い。
「大武丸」という名前は、「大きな武力を持った丸」で、「丸」は「麿」の転訛、「麿」は男性を指す語句である。つまり「すっげえ強いヤツ」程度のニュアンスで、特定個人を指しているとは言い難い。
勢力の首長の可能性もあれば、天災などの困難そのものを擬人化した可能性もある。
また、「鬼」に意味がある場合、これを「オニ」と考えなくても良い。
鬼の意味は、1種類ではない事を忘れてはならない。
昔話に出て来る鬼は、陰陽五行説の考えが色濃く、鬼門の丑寅の方角を司るものとして、牛角に虎皮の褌を締め、肌色は5色のバリエーションを持つとされる。
だが、それ以外にも天狗や夜叉、羅刹を当てはめる場合もある。
そもそも「キ」と読んで「死者の魂」「地霊」などを意味するのが、日本における元々の意味である。
鬼死骸は祖先の愛?
鬼が「キ」であった場合、「鬼死骸」は死者の魂が在り、肉体が埋まっている場所という事だ。
鬼自体に悪いイメージがないなら、これは悪しき敵ではなく、仲間を葬った墓所と考えて良い。
無論、墓所は死をイメージさせ、決して気分の良い地名ではない。
だが、墓所を地名に残す違和感は、一ノ関の地理的状況から考えると、理解しやすい。
一ノ関駅周辺は、磐井川と北上川の合流点の間近だ。このような場所は、水に恵まれる一方、水害の頻発地帯になる。
ハザードマップによれば、河川氾濫時の最大水深が10.0m以上に達する地域もあるという。
一方、同じ一ノ関市内でも、鬼死骸の地域である真柴まで南下すると、氾濫の影響は皆無だ。
中心部と大きく離れず、危険の少ない安全地帯に墓地を作り、記憶に刻まれやすい「鬼死骸」の名を残したと考えられるだろう。
普段住まないにしても、緊急時の避難場所として覚えておく事は有効だ。
鬼死骸の名には、おどろおどろしい意味よりも、子孫の安全と繁栄の願いが込められていたのではなかろうか。
平泉の旅にプラスα
漫画『鬼滅の刃』が盛り上がっていた頃、地域興しのバスツアーなども実施され、鬼死骸の認知度が高まったという。
名前がはっきり表示された「鬼死骸停留所」は、路線廃止されているものの、観光用の簡易な休憩所になっている。2kmほど離れた場所には、鬼死骸八幡神社もある。
平泉観光のついでに、訪れてみるのも良いだろう。
もっとも、一ノ関駅からここに辿り着くためには、日に4本しかないバスを使う事になる。
この行き難さも、危険から離れるための距離であったのかも知れない。
※画像はイメージです。
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