日本が占領下にあったころ、原爆で壊滅した広島の復興をめぐって、「現状のまま後世に残すべき」という提言があったことを最近になって知った。原子爆弾が投下されたらどうなるか、それを被爆国が世界に示そうではないか、というわけだ。
残念ながら、このアイディアに米国が賛同したとは思えない。市街地を遺構として保存するとなれば、都市機能も他の場所に移される。容易なことではない。
「破壊された街を当時の姿のまま残す」。日本では実現しなかった試みが成功している国もある。フランスのオラドゥール村をご存じだろうか。この村は1944年6月10日を境にすべてが止まってしまった。歴史も生活も人生も、なにもかも。
時計が止まった村
パリの南西約400㎞のところにオラドゥール・シュル・グラヌという廃虚の村がある。第二次大戦末期、ダス・ライヒ(第2SS装甲師団)による住民虐殺が行われ、一夜にして焼き払われた惨劇の舞台だ。
四方をなだらかな丘と畑に囲まれ、近くに村の名の由来となったグラヌ川が流れる。一見なんの変哲もない、のどかな田園の風景。しかし村に一歩足を踏み入れると、様相はがらりと変わる。
村の入り口にある石造りの門には、フランス語で “SOUVIENS-TOI” 、英語で “REMEMBER”と書かれたプレートがある。「忘れるな」 ——死者の魂は訪問者にそう訴える。
人の息づかいをまったく感じない、時間の静止した村。目抜き通りの両側には、屋根が焼け落ち石積みの壁だけになった家々が連なる。そのかたわらに赤さびの自動車がうずくまる。遺体が投げこまれた井戸、瓦礫に転がる自転車。溶けた教会の鐘、壁に残る弾痕。苔むした床の残骸には焼け残ったミシンやケトル。彼らはその日もカタカタと歌い、湯気を吹いて働いていたはずだ。やつらがやってくるまでは。
廃墟のなかに姿をとどめる学校、村役場、郵便局、パン屋、肉屋。往時の面影をわずかに伝える廃屋たち。かつてのにぎやかな街並みと、人々の平和な暮らしがしのばれる。
ここで、21世紀に忘れがちなひとつの事実を思いだす。かつてフランスはナチスドイツの占領下にあったのだ。
虐殺の土曜日
1944年6月10日、土曜日。
早朝から村に立ちこめていた濃い霧は、昼近くにようやく晴れた。畑仕事をしていた村人が作業の手を休め、昼の休憩をとるために、一人また一人と食堂に集まってくる。話の種といえば、ここ数日で大きく変化した戦局についてである。
ノルマンディーに連合軍が上陸したのがほんの4日前のこと。いよいよ連合国の本格的な反撃がはじまった。ドイツの敗北も時間の問題と思われた。みんなの表情はいつもより明るく、陽気な冗談さえ飛び交う。
村人が午後の仕事に戻った14時15分。
村の目抜き通りであるエミール・デズルトー通りから異様な地響きが聞こえた。みると、ドイツ軍の装甲車とトラックの一団が村になだれこんでくる。そのうち数台は広場に停まり、残りは二手に分かれて村の出口を固めた。封鎖完了の合図に信号弾が発射される。
とはいえ、敵が攻めてきたという危機感は村人にはない。ナチスドイツは占領軍であったため、約20㎞南東にあるリモージュなどの都会ではドイツ兵を見かけることもあったからだ。ましてや、ここは田舎の僻村である。村民にとって戦場は対岸の火事に等しい。
「おじいちゃん、なんか軍人さんがいっぱいきたよ」
「はて? こんな田舎になんの用だろう?」
車輛から降り立ったのは完全武装した120人のSS隊員だった。指揮官らしき男が村長に告げる。
「これより全住民の身分証を確認する。各人それぞれ身分証をもって広場に集合するように。みんなにそう伝えてほしい」
もちろん、これは表向きの理由である。銃剣をもったドイツ兵が各戸の扉を蹴破って押し入っていく。誰か隠れてはいないかと、納屋の干草の山まで突いて回っている。
このとき、村には避難民も少なからず住んでいた。彼らの多くは戦火を逃れて都会から疎開してきた人々で、地元住民よりは戦争のなんたるかを知っていたし、武装親衛隊がどういう部隊かも知っていた。危険を察した男たちが早々に村を抜けだしていく。
8歳のロジェ・ゴドフランは、ふたりの姉と学校で健康診断を受けていた。疎開組のゴドフラン一家は、「もしドイツ兵が昼間にやってきたら、村はずれの森に逃げて落ち合おう」と決めてあった。
「お姉ちゃん、森に逃げよう」
「いやよ、ここにいる。パパとママのところに戻るの!」
「ここにいちゃだめだよ!」
「外はこわいから、いや!」
姉たちはしゃがみこんで動かない。しかたなく、ロジェはひとりで森をめざした。今すぐここを離れろ ——なにかがそう告げていた。
早い段階で村を脱出した男たちとロジェは数少ない生還者となる。
殺戮のとき
午後3時には、およそ650人の村人が広場に集められた。身分証の確認という話を信じこんでいるらしく、緊張感はみられない。学校から連れてこられた子どもたちも親と合流して安心したのか、笑顔がこぼれている。唐突に、指揮官らしき男が言った。
「じつは、この村にレジスタンスの武器弾薬が隠されているとの情報を得た。よって、これから家を一軒一軒あらためる。諸君が家にいては邪魔になるので、指定する場所で待機するように」
村人は、まず200人ほどの成人男子グループと、450人ほどの成人女子・子どもグループに分けられた。男性グループは、さらに30人ほどの六つの小グループに分けられた。村の男たちを少人数に分けたのは、団結して抵抗されるのを防ぐためだ。
女性と子どもはサン・マルタン教会へ、男性は納屋、車庫、倉庫へそれぞれ連行されていく。ロディの納屋へ向かった一行にはドイツ語のわかる疎開組の男がいて、兵士の会話を聞きとることができた。男が隣の村人に耳打ちする。
「まずいぞ。あいつら、俺たちを殺すつもりだ」
女性と子どもが教会に入り終わると、なにやら大きな箱が運びこまれた。箱からは導火線らしきものが垂れ下がっている。つぎの瞬間、箱が轟音とともに爆発した。喉を刺すような刺激の強い黒煙が立ちこめて、息ができずに倒れる者が続出する。そこに機銃が一斉に火を噴いた。生存者の証言によれば、ドイツ兵はまず脚を狙い、逃げられないようにしたあとで、藁をかぷせてガソリンを撒き、火をつけたという。
47歳のマルグリット・ルフランシュは、ふたりの娘と7か月の孫が目の前で死んでいくのをみた。
彼女はなんとか祭壇のうしろまで這って進み、脚立によじ登り、窓から外に身を投げて、3mほど下の地面に落下した。振り返ると、若い母親が赤ん坊を抱いて同じ窓から飛び降りようとしている。しかし赤ん坊の泣き声が兵士に気づかれてしまい、射殺された。
マルグリットは銃撃で怪我を負いながら、畑まで逃げて隠れたことで九死に一生をえる。
同時刻、同じ運命が男たちにも降りかかった。脚を撃たれて動けなくなり、折り重なって倒れたところを、生きながら建物ごと焼き殺されたのだ。一命をとりとめたのは、ロディの納屋から奇跡的に脱出できた5人の男だけだった。
ロジェは森へ走る
そのころ、ロジェは無我夢中で駆けていた。途中で片方の靴が脱げ、転んで膝をすりむいた。脚が痛い。息が苦しい。でも、あの森まで逃げなきゃ。
こわくて、悔しくて、涙があふれてくる。
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。こうなったのは誰のせいだ。神さま、お父さんとお母さんとお姉ちゃんを助けてください。
墓地の近くまできたところでドイツ兵に見つかり、発砲されて、とっさに死んだふりをした。兵士は死んだかどうかを確かめるため近づいて腹を蹴ったが、納得したのか、去っていった。
ロジェは起き上がって、また走りだした。すると、別の兵士に見つかった。そのドイツ兵はしばらくロジェを見つめたあと、構えていた銃を下ろし、森を指さして、「がんばれ、坊主」と言った。
川を渡ろうとしたとき、どこかの犬がついてきた。どこの家の犬だろう。主人とはぐれてさびしいのか、いつもと違う村のようすに怯えているのか、こちらを見上げて鼻を鳴らしている。
「シーッ、お願いだから静かにして。そうか、おまえもこわいんだね。よし、ぼくと一緒に逃げよう!」
しばらく走ると、今度はトラックに乗った兵士に見つかった。銃声がすると同時に犬が鋭い鳴き声をあげて、それきり動かなくなった。相棒が死んだ。
ようやく森にたどり着くと、大きな木の陰に身を潜めて夜を明かした。しかし、朝になっても家族はやってこなかった。両親と姉たちが殺されたことを知ったのは保護されたあとである。
殺戮はなおも続く。広場に集合した人々を処分し終えたドイツ兵は、今度は家に残っている村人に矛先を向けたのだ。寝たきりの老人をベッドごと焼き、乳児をパン焼き釜に放り込む。見つけられるだけの人間を殺し終わると、村に火を放ち、徹底的に破壊した。
村を引き揚げるときはトラックに略奪品が積み込まれ、兵士たちはアコーディオンやハーモニカに合わせて歌を歌っていたという。
この阿鼻叫喚のなかで辛くも生き延びたのは、早い時点で村を脱出したロジェを含む約20人と、殺戮がはじまってから運よく逃げきれ
たマルグリットら6人のみ。643人の犠牲者のうち、身元が判別できた遺体はわずか52体。炭化が激しく、遺骨として回収できないものも多かった。
民間人虐殺の目的とは
この名もなき小さな村を、なぜドイツ軍は襲撃したのか。なぜここまで徹底的に村民を殺害し、村を破壊する必要があったのか。そして、それを命じた人物は誰なのか。
虐殺現場で実際に指揮をとったのはアドルフ・ディークマン少佐だった。しかし、当の本人は事件から20日たらずして、ノルマンディーで戦死した。砲弾の降り注ぐなか、ヘルメットを被らずに、まるで自殺するかのようにシェルターの外へ飛びだしていったと伝えられる。
村で虐殺行為におよんだ兵士は命令に従っただけと釈明し、将校はディークマンの命令で動いたと明言した。それならディークマンに指示した人物は誰かということになるが、上官であるシュタドラー中佐もラマーディング少将も下命は否定している。死人に口なしということか、それともディークマンの独断だったのか。
命令者が誰にせよ、目的はレジスタンスの駆逐にあったとみる向きが強い。事件が起きたのは、連合軍が反撃に転じた直後だった。連合軍の作戦の進行に呼応して、フランスではレジスタンスによる抵抗運動が活発化していたため、ドイツ軍はレジスタンス掃討作戦を展開中だったのだ。
ノルマンディーに向けて進軍中だったダス・ライヒも、行く先々で執拗な妨害を受けていたという事実がある。ちょうどそんなときに「ドイツ人高級将校がオラドゥールでレジスタンスに拉致された」という情報が入った。なんと、村にはレジスタンスの司令部も存在するという。
以上のことから、部隊の狙いは同胞の救出とレジスタンス狩りだったと説明されることが多い。ただしこれには続きがあって、彼らは見当違いな村を襲撃してしまったというのだ。理由はこういうことらしい。
村の南東25kmのところには、地名が酷似したオラドゥール・シュル・ヴェイルという村がある。同じくらいの規模の農村ではあるが、こちらはまちがいなくレジスタンスの拠点だった。情報をリークした人物が、ふたつの村を取り違えていた可能性が高いというのだ。
しかし、この説には少しひっかかる点がある。部隊のとった行動をみるかぎり、村をまちがえたとは考えにくいのである。
彼らは無防備にも一か所から進入して目抜き通りを悠々と通り抜け、内側から他の出入り口を固めた。これはつまり、村に潜伏するレジスタンスの逃亡や攻撃を想定していなかったことを示している。もし想定していたら、村の外側からすべての出入り口を封鎖したはずだ。
おそらく部隊は、敵がいないことも、武器がないことも、捕らわれた味方がいないことも知っていた。この村はシロという前提で村に入ったのだ。
となれば、目的は同胞の救出でもなければ司令部の壊滅でもない。たんなる報復か見せしめである。少なくとも筆者にはそう思えてならない。
被害者はフランス、加害者はドイツと安易に色分けすることはできない。当時のフランスにはナチスの傀儡政権があり、ドイツ軍に協力するフランス人もいたのだから。またレジスタンスはレジスタンスで、破壊行為をくり返してはドイツの民間人を苦しめていた。無軌道にドイツ兵の殺戮をくり返したレジスタンスにも原因の一端はあるだろう。歴史というのは、善悪の価値観のみで総括できるものでもない。
フランスはオラドゥールを忘れない
陸軍軍人からフランス大統領になったシャルル・ド・ゴールは、村を遺構として残すことに決めた。戦争の狂気と人間の愚行を後世に伝えるために、フランスは廃墟を保存したのだ。記憶を継承するにあたって、これほど有効な手段があるだろうか。国道をはさんだ西隣には、ド・ゴールの希望により新しい村が建てられた。
戦後、ロジェ・ゴドフランは叔父に育てられ、成人してフランスの軍人になった。
マルグリット・ルフランシュは、のちの軍事裁判に証人として出廷し、すべてを白日のもとにさらした。彼女は再建された村に住み、91歳まで生きた。今は犠牲者とともに旧村の墓地で永遠の眠りについている。
最後まで存命だった生存者、ロベール・エブラは、2023年2月11日に97歳で亡き数に入った。
史跡となった廃墟は、このさき90年、100年の歳月の風化に耐えながら、子どもたちになにを語りかけるのだろう。
featured image:User:Dna-Dennis, Public domain, via Wikimedia Commons
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