あなたはコックリさんをしたことがありますか?コックリさんとは漢字で狐狗狸さんと書き、その名の通り低級の動物霊を呼び寄せ、託宣を得る占いの一種。1970年代に日本の小中学校で大ブームとなり、集団昏倒事件などを引き起こしました。
さて、欧米にもこれとよく似た子供の遊びが伝わっているのをご存知でしょうか?
今回は『呪い襲い殺す』のタイトルで映画化もされた欧米版コックリさん、ウィジャボードの歴史を解説していきます。
誕生は19世紀末、名前の由来はフランス語+ドイツ語の「はい」
ウィジャボードの誕生は1890年。実業家のイライジャ・ボンドが米国特許を取得し、1892年にパーカー・ブラザーズ社から占い用のおもちゃとして売り出されます。
ウィジャボードの由来はフランス語で「はい」を意味するウィ(Oui)と、ドイツ語で「はい」を意味するジャ(Ja)の造語。日本のコックリさんと同じく、プレイヤーが盤上に指を置き、「はい」か「いいえ」を指し示すことから名付けられました。
当時のフランス・ドイツでは心霊主義が幅を利かせ、交霊会がブームになっていました。夜毎社交界で催されるパーティーには選りすぐりの霊媒師が招かれ、上流の紳士淑女と共に交霊会に勤しみます。このブームはやがて英国にも飛び火し、シャーロック・ホームズの生みの親、コナン・ドイルも心霊主義に傾倒します。
霊媒師が一切を取り仕切る交霊会では、数種の小道具が用いられました。その目玉となるのがキャビネット。
イギリスの著名な霊媒師フローレンス・クックは物心付いた頃から霊感を持ち、日常的に幽霊を見てきました。本格的な霊媒師デビューは15歳の時で、以来自宅で頻繁に交霊会を開き、知人友人を招待します。
フローレンスは18世紀のジャマイカ総督の娘、ケイティ・キングの霊魂を自身に下ろしたと主張。己の潔白を証立てる為、椅子に手足を縛り付けた状態で、キャビネットと呼ばれる小部屋に自分を隔離させます。
しばらくすると白いローブを纏ったケイティの霊がさまよいだし、参加者たちと茶飲み話を始めるではありませんか!これには一同驚愕し、フローレンスの実力を認めざる得ませんでした。ケイティ・キングは参加者が体に触れることや写真撮影も許し、親密な交流を結んだといいます。曰くケイティの肌は大理石のように滑らかで冷え切り、骨の感触がまるでなかったとのこと。他に必要な道具は参加者が着席するテーブル、振り子、プランシェットなど。
プランシェットはフランス語で「小さな板」を意味する実験器具で、ハート形の平らな木片に車輪付きキャスターを装着し、鉛筆を引っかける窪みを備えたもの。
トランス状態に陥った霊媒師はこの鉛筆をとり、プランシェットの盤面に紙を固定し、自動筆記を行ったのでした。
19世紀末に流行した交霊術スタイルはテーブルターニングといい、参加者がテーブル上で手を繋ぎ、目を瞑るのがマナーとされていました。フローレンスもまたテーブルターニングの達人で、ケイティの物質化に何度も成功しています。
一方で彼女のトリックや一人二役を疑い、詐欺師と非難する人も絶えませんでした。ある時を境にフローレンスは交霊会をぱったりやめて結婚、霊媒師を引退します。はたしてフローレンス・クックは世を欺いた詐欺師なのか、それとも正真正銘の霊媒師だったのか……フローレンス・ケイティが48歳で没後も賛否両論分かれ、激しい議論が続いてます。
ウィジャボードの進化
黎明期のウィジャボードはごくシンプルな造りをしており、霊媒師が字を綴る紙の下敷きとして用いられました。そこに歳月を経た改良が加わり、盤面に24字のアルファベットと0から9までの数字が彫り込まれます。参加者はウィジャボードの上にプランシェットを設置し、召喚に応じた霊が彼等の手を通じてそれを動かすのが、新しい交霊会のスタイルに取って代わりました。早い話が霊媒師を主役に立てない、全員参加型になったのです。
その後一度は衰退し、トーキングボードと呼ばれる別企業の新商品に置かるティスト御用達アイテムの座を明け渡すものの、1960年代にヒットソング「プランシェット・ポルカ」の題材にされるなどして人気が再燃。現在に至るまで好事家愛用のアンティークとして親しまれています。
ウィジャボードをモチーフにした映画『呪い襲い殺す』
『呪い襲い殺す』は2014年にアメリカ合衆国で公開された、スタイルズ・ホワイト監督のホラー映画。本作は一枚のウィジャボードが巻き起こす惨劇を描いており、主演のオリヴィア・クックをはじめとする俳優陣の力演が光っていました。
主人公のレイン・モリスは子供時代、幼馴染の大親友デビー・ガラルディの家に泊まった折に、ウィジャボードを介した降霊ごっこに付き合わされます。
ウィジャボードには絶対守らなければいけないルールが三点ありました。それは墓場でやらないこと、一人でやらないこと、最後に必ずさよならを告げることです。
数年後、高校生になったデビ―が謎の変死を遂げました。彼女は二週間前にウィジャボートで一人遊びをしたとレインに告白後、階段の手摺にロープを結び、首を吊ってしまったのです。
デビ―の葬式後、彼女の両親に形見分けを促されたレインは、デビーの自室で因縁のウィジャボードを発見。交霊会でデビ―の霊を呼び出し、直接自殺の理由を聞こうと決断するのですが……。
批評家筋には酷評された『呪い襲い殺す』ですが、ホラーファンの熱狂的支持を受け、2016年に前日憚に当たる『ウィジャ ビギニング 〜呪い襲い殺す〜』が公開されています。それ位欧米の人間にとって、ウィジャボードは身近なおもちゃだったのです。
コックリさんはウィジャの後継だった
コックリさんの歴史は浅く、鎖国が解けた明治時代に外国船員を通じて伝わったと語り継がれています。コックリさんの雛型こそまさにウィジャといえ、三か条のルールを共通している事からも、根深い同期性がうかがえますね。
幕末の哲学者・井上円了曰く、1884年に伊豆半島下田沖に漂着したアメリカの航海士が、地元住民にテーブルターニングのやり方を伝授したのが始まり。その後は伊豆を起点に欧米の船員が出入りする、日本全国の港町に広まっていきます。
テーブルターニングにはテーブルが不可欠ですが、当時の日本にはまだ普及していなかった為、参加者は三本の竹で支えたお櫃で代用。されど重心が不安定なせいでこっくり、こっくりと傾いてしまい、その様子を見た人々は自然と「こっくりさん」と呼ぶようになりました。狐狗狸さんとは当て字だったのです。
ウィジャはこっくりさんのご先祖様に位置付けられているものの、アルファベットを五十音順のひらがなに置き換え、紙のてっぺんに鳥居を描き加えるなど、独自の改良も加えられています。プランシェットの代わりに十円玉を取り入れたのも、日本オリジナルの発明でしょうか。
極論紙一枚と十円玉さえあれば遊べるので、余計な道具がいらない分、日本のコックリさんの方が洗練されている印象を受けました。なおお隣韓国では「分身娑婆(ブンシンサバ)」、台湾では「碟仙(ディエシェン)」と名前を変え、新聞紙の上に皿を乗せる形で行われています。
日本の子供たちに長年親しまれてきたコックリさんですが、やる時はくれぐれも決まり事を守ってください。軽率なまねして霊を怒らせれば、あの世に連れて行かれてしまうかもしれませんよ。
featured image:Elijah Bond (1847–1921) and Charles Kennard (1856–1925), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
思った事を何でも!ネガティブOK!