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謎めくヨハネ・パウロ1世の死~33日教皇とバチカンスキャンダル

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バチカン市国はローマ市内の丘の上にある。
3000年前はネクロポリス(死者の街)だったこの丘は、その後もローマ人の埋葬地として使われてきた歴史をもつ。ここに教会堂が建てられ、全世界のカトリックの総本山になったのは、この地でペトロが殉教したと信じられてきたからだ。
「イエス・キリストの代理者」たるローマ教皇は、カトリック教会の最高位聖職者という宗教的地位のみならず、バチカン市国の国家元首という顔ももっている。

一方でバチカンのダークサイドに目を向ければ、金融スキャンダルをはじめとする醜聞がたびたび報じられてきたのも事実だ。
かつて「微笑みの教皇」と親しまれ、バチカン銀行の改革に着手したヨハネ・パウロ1世は、就任の翌月に急逝して世界に衝撃を与えた。
問題は、その死因だ。

さて、今回は慎重に扱うべき話になる。一部の人びとの心情を刺激する可能性があるからだ。筆者はカトリック教会そのものに立ち入るつもりはない。また、帰天から半世紀がたち、新たな証拠も進展もない現時点において、その死を面白おかしく掘り起こすつもりもないことをお断りしておきたい。

目次

清貧の聖者

ヨハネ・パウロ1世はイタリア王国ベッルーノの極貧の家庭に生まれた。出生名をアルビーノ・ルチアーニという。
敬虔なカトリック教徒だった母の感化を受けて育ち、幼少期から聖職者を志して、やがて神学校に進む。
司祭に叙階されたのは22歳のとき。第二次大戦後は神学校で教鞭をとり、1958年には司教に任命された。
清貧の精神を失わず、質素な生活を送るのは司教になっても変わらない。金銭にも潔癖で、献金はそのまま教会に納めてしまう。こうした清廉な稟性が、のちに彼をバチカンの大改革に駆り立てたのかもしれない。

総大司教に任命されてベネツィアに発つとき、信者が寄付した100万リラをすべて教会に残したエピソードが残っている。
「わたしがこの地に来たとき、ポケットにあったのは5リラでした。ですから、去るときも5リラです」
1973年に枢機卿に選ばれたあとは、貧困層や発展途上国の救済に心血を注いだ。時の教皇パウロ6世の厚い信頼を獲得していたにもかかわらず、バチカン内部における栄達にはきわめて無欲だったと伝えられる。

1978年8月、パウロ6世の帰天を受けて開かれたコンクラーベで、並み居る本命たちを退けて新教皇に選ばれた。教皇名は、先代と先々代の姿勢を継承する意味をこめた「ヨハネ・パウロ」。複合名を採用した最初の教皇である。

バチカン銀行総裁 マルチンクス大司教との因縁

ここで、ルチアーニが総大司教をつとめていたベネツィア時代の出来事について触れておかなければならない。
このころのベネツィアでは、聖職者や低所得者層への低金利融資を行うカットーリカ・デル・ベネト銀行が大きな陰謀に巻きこまれていた。あらましを整理するとこうなる。

バチカンには宗教事業協会、通称バチカン銀行がある。その総裁ポール・マルチンクス大司教はマフィアと関係が深かった。彼はバチカン銀行の主要取引先であり、資金管理を行うアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィと共謀して、カットーリカ・デル・ベネト銀行を秘密裏に売却する。脱税と株式の不法売買をもみ消すためである。カルヴィはのちに頭取に就任し、「教皇の銀行家」と呼ばれるようになる。
ルチアーニは、これをバチカンに物申す。マルチンクスをバチカン銀行総裁に任命したのがパウロ6世だったこともあり、教皇へ累が及ばないよう折衝には心を砕いた。翌年には早くも枢機卿に選出されていることから、このときの采配がパウロ6世の琴線に触れたのは想像にかたくない。

かたやマルチンクスはというと、この窮地をなんとか切り抜けることができた。もしここで失脚していれば、筆者はこの記事を書いていないだろう。
彼はその後もアメリカマフィアに贋造公債の発注をしてFBIの捜査対象になるなど、聖職者らしからぬ黒い素行が取り沙汰されることになる。

改革と急逝

ヨハネ・パウロ1世は、あらゆる意味で型破りな教皇だった。虚飾的で古めかしいバチカンの慣例を嫌い、伝統に反したスタイルを貫いて周囲を驚かせたのだ。
たとえば、それまでの教皇が自らを「朕」と呼んでいたのを「わたし」に変える。壮麗な戴冠式や教皇冠を拒否する。難解なラテン語や宗教用語を多用した演説は、一般人にもわかりやすい平易な表現にあらためる。さらに「本当に子どもを望む女性のみが妊娠すべきである」と避妊の解放も説いた。以下は、ある日のミサの言葉だ。
「教会の宝である人々のためには力を尽くしましょう。しかし、悪人には教皇の教権をはばかることなく行使します」

バチカン銀行は、すでにマフィアやイタリア政界関係者への不正融資が行われたり、借名口座として不正蓄財に使われたり、マネーロンダリングの温床になるなど社会問題になっていた。
ヨハネ・パウロ1世は、そんな現状を打破しようと改革を表明する。マルチンクス総裁をはじめ、汚職に関与するバチカン内部の関係者を追放する計画を立て、実行に移そうとしていたのだ。それは画期的な大改革になるはずだった。

そんな矢先のことである。
1978年9月28日午前4時45分、彼はバチカン宮殿の自室にて遺体となって発見される。65歳、在位33日の急逝だった。

教皇暗殺説

ローマ教皇の死亡確認はどのように行われるか。
古くは首席枢機卿が本名を三度呼び、ハンマーで額を三度たたく方法がとられていたが、時代錯誤もはなはだしいと批判の声があがったため、現在では医師による確認を経たあとに儀礼的に行われるだけになっている。つぎに、教皇の印章が彫られた「漁師の指輪」を遺体の右手から外す。指輪はすみやかに破棄される。もちろん悪用を防ぐためだ。亡骸はすぐには埋葬されず、数日間安置される。
ヨハネ・パウロ1世逝去の一報が伝わると、真っ先に流れたのは暗殺の噂だった。早すぎる死にまつわる疑点をみていこう。

偽りの発表

第一発見者は修道女だった。彼女は、教皇が起床時間の午前4時になっても姿を現さないことを不審に思った。
まず秘書のマギー神父に伝えられ、5時に国務長官のヴィヨ枢機卿に報告された。しかし主治医には連絡されず、なぜか次席の医師が呼ばれている。

医師による検死が行われたのが6時すぎ。まもなく「帰天推定時刻は昨夜23時頃、死因は急性心筋梗塞」と断定され、この検死内容のとおりにバチカン放送が帰天を発表。また、聖職者の私室に女性が立ち入ってはならないという理由から、第一発見者はマギー神父とされ、発見時刻も「午前5時30分」と偽って公表された。

早すぎる葬儀屋

遺体発見から20分とたたず、医師への連絡も行われていない時点、つまり医師によって死が確認されていない時点で、早くもバチカン御用達のシニョラッティ葬儀社が連絡を受けている。

健康体なのに急死した不思議

急性心筋梗塞という発表に首をかしげた人は多かった。ヨハネ・パウロ1世は酒や煙草を嗜まず、病歴もないことで知られていたからだ。数週間前の健康診断でも特に異常は認められなかったという情報もある。

遺体解剖の遅れ

解剖が行われず、人びとが死因を訝しむなか、防腐処置が施された。
イタリアの有力紙『コリエーレ・デラ・セラ』やバチカン記者クラブがこれを大々的に批判し、解剖して死因を明確にすべきだと主張したが、ヴィヨ国務長官は「先代パウロ6世の教皇継承規定のなかに解剖禁止の項目がある」として一蹴する。
国務長官は遺体発見の前日に教皇から更迭が言い渡されていたことが明らかになっている。

更迭者リストの消失

遺体発見時にベッドのサイドテーブルに置かれていた眼鏡や床のスリッパをはじめ、手元にあった更迭者リスト、および常時保管されている遺言状がヴィヨ国務長官によって持ち去られ、消失した。

マルチンクス総裁の目撃証言

遺体が発見された日の早朝、朝に弱いマルチンクス総裁が教皇の居室近くで目撃されている。
教皇暗殺説が現実味を帯び、あたかも「触れてはならない真実」のように拡散したのは、帰天直後に情報操作・証拠隠滅と思われる行為が次々と行われたことや、それらの対応が迅速だったことが大きく影響しているだろう。

謀殺説への反論

かたや、陰謀はないとする見方もある。シニョラッティ社の経営者やバチカンの医師、衛兵らが以下のように証言しているのだ。

葬儀社が連絡を受けたのは、実際は当日の夕方である。
教皇は健康体ではなく、心臓病に悩まされていた。
医師が死因を特定した以上、すみやかに防腐処置を行って信者に対応するのが順当な流れ。
マルチンクス総裁はその日にかぎらず、たびたび教皇の居室近くで目撃されている。
遺体解剖は、じつは防腐処置終了後に極秘のうちに行われた。

いったい誰が噓をついているのだろう。こうなると、どこまでが情報操作なのかわからない。

聖と俗と悪党と

改革が頓挫したバチカン銀行は、その後もアンブロシアーノ銀行を介してマフィア絡みの違法取引をつづけることになる。
1981年にはイタリア中央銀行による査察がアンブロシアーノ銀行に入り、10億米ドルを超える使途不明金が発覚。カルヴィ頭取は偽造パスポートを使って国外逃亡するも、ロンドンのテムズ川の橋の下で首吊り死体となって発見される。英伊両国の合同捜査によって、自殺ではなく殺害されたことが判明した。
カルヴィ暗殺はバチカンのみならず、イタリア政財界の大物たちからマフィアなどの犯罪組織、果ては後継のヨハネ・パウロ2世の母国ポーランドの「連帯」を支援するCIAに至るまで、さまざまな表と裏の組織の関与が取り沙汰され、収集のつかない一大スキャンダルに発展していく。

黒幕の一人とみなされたマルチンクスにはイタリア検察の逮捕状がでる。ところが、ほどなくして逮捕状は無効となる。バチカン市国という外国籍のおかげで。
1989年までバチカン銀行総裁をつとめた彼は、その翌年にすべての職を辞して母国アメリカへ戻る。晩年は取材を拒否し、バチカン時代については完黙をきめこんだまま、2006年にアリゾナ州の自宅で永遠に黙止した。

聖と俗、宗教と金はコインの表裏と同じで、切っても切れない運命なのだろうか。
「微笑みの教皇」の死には、いまだ多くの謎がある。遺言状が今日まで発見されていないこともそのひとつだ。
再捜査を求める関係者の思いが報われることを切に祈る。

※画像はイメージです。

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