カナダ史上、最も悪名高きシリアルキラーの一人として名を刻むロバート・ウィリアム・ピックトン。
殺した人数は分かっているだけで49名だが、実際はもっといるのかもしれません。
衝撃的なのは、そのおぞましい遺体処理方法です。
一体、彼に何があり、なぜこれほどまでの凶行が可能だったでしょう?
資料から筆者なりに考察していきたいと思います。
幼少期と歪んだ環境
ロバート・ピックトンは1949年、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のポートコキットラムという、バンクーバー近郊の農場が点在する地域で生まれました。
一家は広大な養豚場を経営しており、父親のレナードは寡黙でロバートとの関わりは少なかったとされる一方、母親のルイーズは非常に支配的で農場を実質的に仕切っているのです。
生活環境が酷く、汚れたままで洗濯していない服のままで学校へ行かされるので養豚場の匂いが漂い、同級生から「臭い豚野郎」と蔑まされて孤立した存在。
母親によって農場の仕事を優先され、過酷な労働環境から次第に学業がおろそかになっていき、知的、学習能力が他の同世代の子供より著しく引くなり、授業に全くついていけずに、小学2年を2回経験しています。
特別支援学級に入れられた時期もありましたが、結局、教育課程を最後まで終えることはありませんでした。
ロバート・ピックトンの人格形成にとてつもなく暗い影を落としたのは、12歳の時に起きた事件です。
一頭の子牛を飼い始めるのですが、それは彼にとって初めての「ペット」であり、深い愛情を注いで世話をしていました。
ある日、子牛が姿が見えなくなり、納屋を見てくるように言われた彼は、そこで目を疑うような光景を目にします。
それは、屠殺された子牛。横たわる遺体を前に彼は取り乱します。
子牛を殺したのは母親のルイーズでした。彼女は感情よりも実利を重視する人物であり、息子が情を通わせた動物を何の前触れもなく処分したのです。
ルイーズの行為は、養豚場で生活する上で、子供の情緒を断ち切るための教育的な見せしめに近いものだったのかもしれません。
この出来事は、ロバートの精神形成に少なからぬ影響を与えたと考えられます。
学校では誰にも相手にされず、愛情を注いだ対象は母親の手によって処分される。
彼の歪み、後に見られる「命」や「遺体」に対する異常な感覚は、幼少期の体験からの可能性を感じます。
僕の農場へようこそ
1978年、79年と立て続けに両親を亡くし、ロバートとデイヴィッドの兄弟は養豚業を継続するのですが、徐々に衰退していきます。
そこに青天の霹靂というべき、都市開発の影響で地価が高騰、売却して最終的におおよそ800万ドル前後の大金が舞い込んできたのでした。
するとロバートは正反対の性格の兄「デビット」の入れ知恵によって、この金と残った養豚場の土地を利用し、「奉仕やスポーツ団体、慈善団体のためのレクリエーション施設 ”ピギーズ・パレス”」を設立したのです。
だが、その実態は、違法クラブで金に物を言わせてバンクーバーのダウンタウンから商売女たちをかき集め、夜な夜な怪しいパーティーを開いていたのでした。
時同じくして、ダウンタウン・イーストサイドで生活している底辺層の女性たちが行方不明になっていったのです。
しかし、彼女たちの多くは薬物や貧困に苦しむセックスワーカーであり、社会の片隅で生きる底辺の存在、その失踪は当初、「どこかへ移ったのだろう」程度に軽視されるばかり。
ところが、1998年頃になると女性たちの失踪が異常なペースで多発していることが明らかになり、事件の可能性が浮上し、捜査が進む中でピックトンの養豚場に疑いの目が向けられるようになります。
農場関係者からの匿名情報や、行方不明者の所持品が農場にあるといった複数の情報が寄せられたことが、捜査の端緒となったのだが、事件に繋がる兆候は早くからあったのでした。
1997年、セックスワーカーのウェンディ・リン・エワートに対する殺人未遂容疑でロバートは逮捕されています。
ウェンディは彼に刃物で襲われたと証言したのですが、彼女が薬物依存者であったことなどを理由に、検察は証言の信頼性に懸念があるとして起訴を取り下げられました。
この判決が、結果として彼の犯行をエスカレートさせる要因となった可能性が高く、「自分は罪に問われない」「弱者は無視される」という誤った確信を得たのかもしれません。
だからこそ、”ピギーズ・パレス”とロバートの犯罪は明るみに出てこなかったのでしょう。
養豚場からの戦慄すべき証拠
002年2月、警察は農場に家宅捜索を行った。表向きの理由は「違法な銃器の所持」に関する捜査だったが、これはあくまで突破口にすぎません。
というのも、ある情報提供者から「農場に違法な銃器がある」という証言が寄せられた際、同時に殺人や遺体に関する内容も含まれていました。しかし当時、それらについての直接的な証拠が不足していたため、警察はより立件しやすい銃器関連法違反を口実に令状を取得したのです。
カナダでは銃器規制が厳しく、無許可の所持はそれだけで家宅捜索の正当な理由になる。その制度を利用し警察は踏み込んのでした。
捜索が進むにつれて、おぞましい事実が明らかになっていきます。行方不明の女性たちの所持品、DNA鑑定によって特定のされた複数の女性たちの遺体の一部や遺留品が、農場敷地のあちこちから発見されました。
元従業員や農場に出入りしていた人々の証言から、ロバートが女性たちを農場で殺害し、その遺体を養豚場で飼育する豚に食べさせて処理していた実態が浮かび上がります。
さらに一部の遺体はミンチにされ、豚肉と混ぜてソーセージなどに加工され、地域の慈善団体やフードバンクに寄付されていた戦慄すべき証言まで飛び出します。農場は、彼の猟奇的な犯行を隠蔽するための「死体処理場」と化していたのです。
敷地内からは、最終的に26人もの女性のDNAが確認されました。
逮捕、裁判
ロバートは2002年に逮捕されます。当初、彼は26件の第一級殺人罪で起訴されたが、審理の効率化と陪審員への負担軽減を目的として、最初の裁判では6件の第二級殺人罪に絞って審理が行われました。
裁判で重要な証拠の一つとされたのは、逮捕後に警察が仕掛けたおとり捜査であります。
留置施設でロバートと同じ房に囚人に化けて潜入した捜査官に対し、彼は「49人殺した。あと1人でキリのいい50人だったのに」と自慢げに語ったとされる供述が明らかになりました。
これは彼の犯行の規模と、それをある種の「偉業」のように捉えていた可能性を示すものでしょう。
この供述は録音され、後に裁判で決定的な証拠として採用されたのでした。
2007年、ロバートは審理対象となった6件の第二級殺人罪で有罪判決を受けます。第一級殺人(計画的殺人)ではなく第二級殺人となったのは、個々の殺害行為に明確な計画性があったと立証することが困難だったためです。
彼は仮釈放なしの25年間の終身刑、カナダにおける第二級殺人での最長の刑期を言い渡されました。
彼は逮捕後も一貫して無罪を主張していたとされています。彼の精神状態については様々な議論があるが、自らの行為の異常性を認識できない、あるいは現実を歪曲して捉えている可能性が指摘されています。
被害者について「苦しみから解放してやった」などと語ったとされるのは、自らの凶行を正当化するための病的な論理であったと考えられています。
この事件は、個人の異常性だけでなく、社会の脆弱性やシステムの問題も浮き彫りにしました。
特に、社会の周縁に追いやられた人々の命が軽視され、多数の失踪が起こるまで対策が取られなかった警察の対応は、痛ましい教訓として語られています。
ロバート・ピックトンが殺害した女性の正確な人数はいまだ判明しておらず、彼自身は「49人を殺した」と語っていたが、公式に立証されたのは一部にとどまっているため。
この事件は、カナダ社会に深い衝撃と反省をもたらしたのでした。
私が感じたこの事件
ロバート・ピックトン事件の背景には、単なる個人の狂気にとどまらない複数の要因が考えられます。
彼の生育環境は、社会から隔絶され、歪んだ価値観が形成されやすいものだったのです。
社会的な孤立や不器用さからくる満たされなさ、支配的な母親や家族内の特異な出来事を通じて、培われた力や支配への偏重が、彼の内面に深く根差していたと考えられます。
農場という閉鎖空間は、彼が自身の歪んだ欲望を何の制約もなく実行できる「安全地帯」を提供しました。
彼は自ら望んで怪物になったのではない。だが、だからといって許されるものではありません。
血と脂にまみれ、女たちの命と引き換えに手に入れたのは、神にも見放された「自由」だったのでしょう。
被害者が、社会の周縁に追いやられた最も弱い立場の人々であったことは、彼の犯行における重要な要素です。
彼らは文字通り「見過ごされやすい」存在であり、ピックトンは彼女たちを人間としてではなく、自身の快楽や支配欲を満たすための「家畜」として徹底的に非人間化しました。
遺体を完全に消滅させるという手口は、この非人間化と、自身の犯行の痕跡を完全に消し去りたいという強いコントロール欲求の現れでしょう。
そして、最も痛ましいのは、1997年の殺人未遂事件で彼を野に放ってしまった司法判断の失敗。
あの時、彼の危険性を見抜き、社会から隔離していれば、その後の多数の犠牲者は生まれなかったかもしれません。被害者たちの訴えに十分耳を傾けなかった社会や警察の姿勢もまた、事件がここまでエスカレートした要因として厳しく批判されています。
ロバート・ピックトン事件は、家族という闇、そして社会全体の構造的な脆弱性が複合的に絡み合って生まれた悲劇ではないでしょうか?
※画像はイメージです。


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