あれはたしか平成になってすぐの春だったと思う。
駅前の掲示板に、「約束を忘れないで」とだけ書かれた紙が貼られているのに気づいた。
年季の入った掲示板で、普段は商店街の催し物とか、町内会の寄り合いの案内くらいしか貼られていない。
だいたい誰も真面目に見ちゃいない。
その紙は、名前も連絡先も何も書かれていなくて、真っ白な紙に「約束を忘れないで」とだけ書かれていた。
ただそれだけだから、かえって、きになって仕方ない。
関係あるのか分からないが、ちょうどその頃から鞄がやたらと重く感じるようになった。
通勤用のセカンドバッグ。書類くらいしか入っていないはずなのに、じわじわと重くなっていく感じがして、たまらなくなった。かかりつけの医者に診てもらったら、「四十肩ですね」とだけ言われた。
掲示板の紙は貼ったままで、毎朝みていると、「で」の文字が日に日に掠れていき、いつのまにか「約束を忘れない」になっていた。
どういう意図で貼ったのかわからないが、これでは意味が変わってしまう。
貼った本人はこれはこれでいいのか?
それとも、もう相手に伝わったから放ってあるのか?
そんなように思っていると、帰り道の途中にある菓子屋のショーウィンドウの隅に、同じ紙が貼ってあった。
店のおばあちゃんに「あの紙、なんですか」と聞いたら、「前からあったよ」とだけ返ってきた。
こんなの前からあっただろうか?
夜、帰宅して鞄を床に置いた瞬間、「どさっ」と重たい音がした。
驚いて開けてみたが、中身はいつも通りの書類だけで、そんな音がするはずがない。
なのに、底が沈むようにたわんでいて、何かが入っているような、入っていないような?
試しに中身を全部出して逆さに振ってみたが、なにか出てくるわけがない。
翌朝から、背中がやけに重く感じるようになった。
駅の階段を上がるたびに、肩を誰かに掴まれているような感覚だ。
会社で鞄を下ろしても、背中の重さは消えない。
ストレッチ体操をしていると、隣の同僚がぽつりと言った。
「最近なんか匂うよ。土の匂い? みたいな?みたいな?」
俺には何も感じなかった。
さて仕事を始めるかと机の引き出しを開けたら、見覚えのない紙切れが挟まっていた。
「約束を忘れ」
それだけが書かれている。裏返すと、茶色い染みが広がっていて、そこから土の匂いがした。
原因はこれかと思って、気味が悪くてすぐにゴミ箱に捨てた。
夕方、帰り道でまた掲示板を見ると。
「約束を」
もう、それだけしか読めない、だけど、目に止まったのはそれだけではない。
掲示板の下に、小さな花束が供えられていた。
カーネーションと色あせた造花のユリ、それに半紙の切れ端が挟まれているのが見えた。
思わず手に取ると、こう書かれていた。
「もう、いいよ」
なぜか足がすくんでうごかない、全身の重みが取れて、宙に浮かぶように軽く感じた。
駅のざわめきも遠のいて、何も聞こえなくなった。
気がつくと病院のベットにいた。
生涯で一番怖い思いをした話。
※画像はイメージです。
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