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徳川が仕掛けた江戸鎮護プロジェクト?平将門と北斗七星結界~後編

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徳川家康の都市開発計画によって、祟り神は江戸の守り神となった。
妙見の北斗七星になぞらえた霊跡の配置は、将門を将軍家のお膝元に封じ込め、守護しつづけるように築いた魔法陣なのだという。いわば幕府による対朝廷用の結界が張られたのだ。

やがて徳川の世が終わり、明治時代が幕を開ける。武家政権による東京の守護神がわずらわしかった新政府は、その霊力を削ぐために、ある策を練ったとされる。その計画があと一歩で完成するまさにそのとき、凶事が首都を襲った。

後編では結界を構成する七つの要所と、明治政府による結界封じについて話をすすめていきたい。

目次

北斗七星結界を構成する七つの将門霊跡

まずは北斗七星を形づくる将門ゆかりの霊跡をみていく。どの寺社が該当するかについては諸説あるが、ここでは一般的に選ばれているスポットを基準とした。

1. 将門一族の末裔が宮司をつとめる鳥越神社

起点となるのは台東区鳥越にある鳥越神社。柄杓の器の先端の星、ドゥーベ(貪狼星)あたる。
鳥越神社は白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのにはじまる古社で、「鳥越」という現社名は源義家の故事に由来する。

由緒をみるかぎり将門との関連はないようにみえるが、この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。
昔から将門の御霊を祀っているとする俗説があること。将門の手が埋められているという伝えがあること。また、首がこの地を「飛び越え」たという伝承を「鳥越」の由来とする説があること。宮司の鏑木氏は将門の叔父・平良文を始祖とする千葉氏の支族であること。つまり、鏑木氏は将門一族の末裔にあたる。

「じつは将門と関わりがある」といわれている寺社は、それを公然と否定するか、そういう俗説もあることはあるというスタンスをとっていることが多いようだ。理由は明治期の皇国史観のもとで将門が冷遇されたことがあげられる。朝廷に反旗を翻した賊を神社の祭神から外し、代わりに皇室ゆかりの神を迎えたり、史跡が破壊された例もある。本当はゆかりがあるにもかかわらず、それを公にすることがはばかられたために秘匿せざるをえなかった、というところだろう。
排斥を徹底させることができなかったのは、民衆の将門信仰が篤かったことの証ともいえる。将門にまつわるあまたの怪異譚は、こうした排斥運動から霊跡を護るために生まれた側面もあるのではないか。

2. 将門の兜を埋めたと伝わる兜神社

第二のスポットは、柄杓の器の底のメラク(巨門星)にあたる兜神社。日本の金融の中心地、中央区日本橋兜町に鎮座する。明治11年(1878)、旧東京株式取引所の関係者によって創祀された日本証券界の守り神で、昭和2年(1927)に若干位置をずらして現在の位置に移転した。

境内にある兜岩には将門にまつわる伝承がある。討伐軍の藤原秀郷が供養のために将門の兜を埋めて塚を築いたとされ、岩はその名残りだという。

3. ビルの谷間で静かに時を刻む将門塚

つぎは、柄杓の器のもうひとつの底に位置するフェクダ(禄存星)の将門塚。千代田区大手町にある、説明不要のスポットといっていいだろう。
伝承によれば、京から飛んできた将門の首は力尽き、すさまじい地響きとともに武蔵国豊島郡芝崎村(現・大手町)に落下した。村人は哀れみ、ささやかな塚をつくって首を埋め、東国の英雄を弔った。これが将門塚のはじまりである。
ところが、やがて塚は放置され荒れ果ててしまう。時を同じくして流行り病が蔓延し、天変地異も相次いだ。祟りだとおののく人々の前に、遊行(ゆぎょう)中の一人の僧が現れる。
他阿(たあ)真教上人は塚の荒廃に目をとめた。そして丁重に整備し、石塔婆を建て、将門に法号を追贈して供養した。すると怨霊は鎮まったのか、災厄はぴたりとやんだという。

この場所に首が埋葬されたのか、今も埋葬されているのか、本当のところはわからない。確かなことは、この大手町の首塚は現在まで動くことなく、同じ場所で護られつづけてきたことだ。

4. 将門を主神として祀る神田明神

四つめは結界の中心に位置するメグレズ(文曲星)の神田明神(正式名称は神田神社)。
当社は天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村にて大己貴命を祀った社にはじまる。芝崎村といえば、首が落ちた場所である。少しややこしいので整理すると、もともと芝崎村にあった神田明神(の前身にあたる社)の目と鼻の先に首が落ち、首塚が築かれたということだ。先に登場した真教上人の供養によって首塚の祟りは鎮まったが、2年後の延慶2年(1309)、上人は隣接する神田明神(の前身にあたる社)も修復し、将門の御霊を合祀して、ここで神田明神となった。つまり、将門が祀られたのは延慶2年。
「神田」の由来については、下総国猿島郡岩井村(現・茨城県坂東市)の神田山の銅塚から骸を運んで葬ったとする説がある。

江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603)、当社は江戸城増築にともない神田台へ、さらに江戸城の鬼門守護のため元和2年(1616)に現在地の外神田に遷座。新たに移転した場所が北斗七星の中心に位置していることからも、将門の霊威を利用しようとする幕府の思惑がうかがえる。
明治期には主神から外され、境内摂社に遷されるも、昭和59年(1984)にふたたび主神に奉祀された経緯がある。

5. 第五の星・筑土八幡神社と築土神社の謎

五つめのアリオト(廉貞星)は、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祀る新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社とする見方が多い。しかし、当社を第五の星とするのは、筆者は疑問が残る。
将門伝説のなかには、たしかに八幡神の神託が降りたというものがあるし、天海が将門の足をここに祀ったという風説もある。なにより筑土八幡神社をアリオトに見立てると、きれいな北斗七星が描ける。
が、将門とのはっきりした関連性は見いだせない。
幕府が第五の星に見立てた本来の社は、江戸時代には当社の横並びにあって、昭和の戦災で移転してしまった築土神社ではないだろうか。

現在は千代田区九段北に鎮座する築土神社は、公式サイトで「平将門を祀る江戸の古社」と堂々とうたっている社である。社伝によると、京でさらされた将門の首をひそかに東国へ持ち帰り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・大手町)の観音堂に納めて津久戸明神としたことにはじまるという。またもや大手町である。

その後、何度かの移転と社号の改称を経て、筑土八幡神社の隣に遷座したのが元和2年(1616)。
創始以来、将門を唯一の祭神としていたが、明治初頭に天孫降臨の神・天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主神とし、将門は相殿神(あいどののかみ)に格下げされて、ひそかに祀られるようになった。将門を祀る神社であることをふたたび公にしたのは、大正・昭和をまたいだ平成2年(1990)。
驚くことに、昭和の戦災で社殿・社宝が全焼するまで、将門の首級を納めたとされる首桶が御神体として本殿の御扉の奥に存在した。残念ながら、今はその写真が残るのみ。空飛ぶ生首伝説より、打ち捨てられた首を縁者が拾い受けて東国まで運んだとするほうがはるかに現実味がある。

6. 将門を討った男・藤原秀郷ゆかりの水稲荷神社

六つめのミザール(武曲星)は新宿区西早稲田の水稲荷神社。七つの構成要素のなかで、もっとも違和感のあるスポットがここだ。なぜなら将門とのつながりがないどころか、討伐側にゆかりのある神社なのである。にもかかわらず北斗七星の一端を担っているとはどういうことなのか。

興りは天慶4年(941)、藤原秀郷が旧社地の冨塚(現・早稲田大学キャンパス内)に稲荷大神を勧請したことによるという。藤原秀郷は将門を討った張本人で、天慶4年といえば討伐の翌年にあたる。お礼の意味合いが強かったのかもしれない。
昭和38年(1963)に早稲田大学と土地交換を行い、現社地に移った。

あえて水稲荷神社を結界に組み込んだのは、将門の強力なパワーを野放しにせず、コントロールするための戦略的な仕掛けだとする説がある。当社は柄杓の柄の部分を分断する位置に鎮座する。将門に勝利した男を混ぜることで、パワーバランスを保てるようにしたというのだ。

7. 将門の鎧が眠る鎧神社

最後の七つめの星はアルカイド(破軍星)の鎧神社。醍醐天皇の時代(898~929)に円照寺の鬼門鎮護として創建された古社で、新宿区北新宿に鎮座する。
ここには日本武尊と将門の鎧が眠っているという伝えがある。
日本武尊が甲冑をこの地に納めたのが社号の由来であり、将門の鎧伝説が生まれたのは創祀後のこと。藤原秀郷が重い病に苦しんだとき、将門の鎧を円照寺の境内に埋めて霊を弔ったところ、たちどころに回復したというものだ。

わし、江戸さ護る

ここまでみてきた七つの霊跡は、創建時はもちろんのこと、江戸時代以前の位置で線を結ぶと北斗七星を描かない。
ところが家康が天下をとって江戸時代になると、これらのいくつかに移動が生じた。注目すべきは、ほぼ同じ場所に鎮座していた神田明神と築土神社。どちらも将門塚を基点に北斗七星になるように配置されている。その他の神社は大きく移転せず、ほぼそのままの位置を保ったといっていいだろう。
「神社仏閣は都市開発のなかにあっても動かない」のではなく、都市開発だからこそ神社仏閣が動いた。先入観は、このさい捨てたほうがいいかもしれない。

ともあれ、こうして祟り神は江戸の守り神となった。正しくは、家康によって祀り上げられた。
ところが、徳川の世の終わりとともに将門に受難が降りかかる。幕府を倒した明治政府にとって、東京に残された対朝廷用の結界は忌々しいものでしかなかったのだ。

結界封じの山手線で1000年の祟りが再発動 

「将門の結界を破ると首都壊滅レベルの災いが起こる」という都市伝説を聞いたことはないだろうか。
こうした風説が流布するようになったのは、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災が大きく関係していると思われる。

江戸幕府崩壊後、新政府は東京の守護神・将門を忌み嫌った。そこで、家康が張った北斗七星を壊し、その霊威を封じようと考えた。
その計画とは、鉄の魔法円。古来、鉄は霊力を宿し、一方で霊力を遮断するという相反する性質をもつと伝えられてきた。新政府は鉄の力を借りて、北斗七星結界を破る新たな結界を張る計画を立てたのだ。それが鉄道であり、山手線計画だったという話である。
山手線の環状路線を上空からみると、北斗七星を二か所で分断しているのがわかる。

しかし、すべてがそううまく運ぶはずもない。なにせ相手は日本トップレベルの大怨霊なのだ。
山手線完成を目前にしたまさにそのとき、将門の怒りが激しい鳴動となって首都に襲いかかった。それはちょうど首塚と兜神社をつなぐ結界を断ち切る軌道の敷設工事のさなかに起きたという。
マグニチュード7.9の大地震によって東京の中心部は火の海と化した。山手線も破壊され、環状運転の開始が大幅に遅れることになった。

将門は今日も東京を護る

令和2年(2020)11月にスタートした首塚の改修工事でふたたび注目を集めた将門伝説。着工直後には茨城県沖を震源とするマグニチュード5.8の地震が発生し、「すわ、祟りか?」と世間を騒がせた。
神田明神の項でも触れたが、茨城県坂東市には弟・平将頼が将門の銅を葬ったと伝えられる銅塚がある。さる情報筋によれば、今回の改修工事で胴塚の土が大手町まで運ばれ、ひそかに首塚に納められたという。明治政府によって分断された将門の首と骸がようやくつながった、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。

国際連合の調査によると、東京は昭和30年(1955)に当時世界最大のメガシティだったニューヨークを抜いて以来、「世界一のメガシティ」の称号を維持している。おそらく令和12年(2030)もトップから陥落してはいないだろうと国連は報告している。武蔵野の片田舎にすぎなかった江戸がこれほど栄え、豊かになるとは誰が予測しただろう。

関東大震災と東京大空襲で焦土と化しても、そのたびに東京はたくましく立ち直ってきた。どんなときも基盤にあるのは家康が築いた江戸の町だ。
将門は、おそらく今日も見えざる力で東京を護っている。木立の中で、ビルの谷間で。

※画像はイメージです。

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