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昭和20年に赤紙が届いて

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学校で祖父母に戦争の話を聞くという宿題が出た、小学6年の頃に祖父から聞いた話です。祖父は太平洋戦争が終わりになる昭和20年に赤紙が来て、戦地に招集されることに決まったとのことです。

長男には赤紙が来ないはずなのに祖父に収集令状が来て、曾祖父母と弟妹、親族は大変ショックを受けたそうです。みんな涙を隠しながら、めでたいことだとなけなしの小豆で赤飯を炊いて祝ってくれたとのことです。祖父はショックを感じるよりもお国のためにという気持ちで一杯だったと言っていました。「戦争で兵隊さんが不足していたのかもしれにゃーね。(しれないね)」と言っていました。

いったん東京に集められたのですが、祖父は左目が生まれつき弱視だったため、1人だけ外地に行く潜水艦の乗組員からは外されることになりました。その時は屈辱めいた気持ちを持っていましたが、後で米軍に迎撃されて沈没したことを聞き、「おらは運が良かっただな。」と言って、笑っていました。他の人は港に送られ、祖父は防空壕を掘るための人員として千葉に赴任しました。

和菓子職人で料理も上手だったことから、隊員の食事を作る担当者に任命されました。近所の農家に食料をもらう交渉をしていたそうです。皆食べる物がないのに兵隊さんのためだからと言って、麦やヒエやアワ、おかぼや芋の蔓をかき集めてただでくれたそうで、涙が出たと言っていました。もらった食材は大切に使い、お米がない中でも雑炊やお粥、雑穀をすりつぶしたすいとんなどを作って、気の荒い方も下っ端の祖父に親切にしてくださったそうです。

中でも上長の方から「いつも美味しいご飯をありがとうな!」と言って、肩をぽんっと軽く叩かれたのが忘れられないようでした。どのような方か聞いたら、例えるのなら、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督のように朗らかで明るい大柄な方だったと懐かしそうに言っていました。

8月に終戦を迎えても玉音放送では、何を言っていたか分からなかったとのことです。1ヶ月してから兵団の解体式が行われ、静岡に帰ることになり、東京でいったん下車したそうです。駅周辺は瓦礫の山となり、とてもびっくりしたと言っていました。子供を連れたやつれたもんぺ姿の若いお母さんがいて、手提げ袋に食材が入っていたのを見かけた時、戦争に負けた悔しさよりも「ああ、やっと普通の生活に戻れるんだ!」と実感して何故かほっとしたそうです。

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コメント一覧 (1件)

  • このお話は、戦時下の国民とはどんな心境だったか
    うかがい知れますね。

    戦時中は、自身の状況に大した疑問がなく、淡々と使命を果たす気持ちになっている。

    しかし終わると、うって変わった、戦争を否定する気持ちになる。

    人間の心とは、戦争によって簡単に操られるのだと感じさせられます。

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