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後悔先に立たずという徳川家康の後悔

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後悔したとて後の祭り、後悔先に立たずという徳川家康の後悔とは?

徳川家康が征夷大将軍となり徳川幕府を江戸に開いたことは、歴史の授業で歴史に疎い人でも知っている事でしょう。その偉大な人物、徳川家康にも後悔先に立たずなことがあります。
徳川家康の後を継ぎ二代目の将軍となったのは徳川家康の三男の徳川秀忠で、徳川家康は自分の後継者に三男の徳川秀忠するしかなかったことを後悔しています。

徳川秀忠は徳川家康の三男です。つまり徳川家康には長男と次男がいますが、次男の秀康は豊臣秀吉の養子出したあと、結城氏の養子に出しています。というより秀康を徳川家康は嫌っていて遠ざけたのです。

長男の信康は築山事件という歴史を知る人物ならご存知の事件により自害させられています。この信康は武将としての器量、その武勇は徳川家康の後継者として相応しい人物でありました。ですが徳川家康は信康を自害させていますが何故でしょうか?徳川家康の後継者として相応しい人物であるのにです。

■徳川信康
『新編 安城市史1 通史編 原始・古代・中世』 勝蓮寺所蔵 [Public domain], via Wikimedia Commons

その築山事件とは徳川家康の正室の築山殿(信康の母)の武田氏内応と信康の加担を咎めた織田信長の命令で、信康が自害という事件のことで、この事件の真相は諸説ありまが、築山殿の武田氏内応と信康の加担、信長の嫡男信忠のライバルとなる信康排除で、真相は徳川家康のマザコンにあると私は思っています。

確かに当時、岡崎周辺に不穏な空気があったのは事実です。
岡崎家臣団クーデター計画の余波として築山事件は起こったのです。徳川家康から岡崎の家臣団の暴発を防ぐため、各々の在所への引きあげ命令が発せられ、徳川家康が「信康御□□□の中なをし(仲良し)」に岡崎を訪れ信康追放となります。

では「信康□□□」は誰か、候補としてあげられるのが、信康の正室、信長の娘のお五徳、或いは築山殿ですが私は大御前様、つまり徳川家康の母於大であろうと思っています。

岡崎家臣団暴発する危険性がある人物、鍵となるのが天正3年12月に起こった水野信元事件、武田氏内通を疑われた水野信元は岡崎の大樹寺で石川数正か平岩親吉により殺害されました。この水野信元は於大の兄なのです。

兄の死を恨む於大が石川数正か平岩親吉を恨むのも当然、そして2人を信頼する信康との間に険悪な空気が生じたとしてもおかしくありません。この対立が、ただでさえ不穏だった岡崎の状況を悪化させ、多分にマザコンの徳川家康が納得しない信康を犠牲にして逆心として、その場を納めざるを得なかったというのが自然です。

事実2人のうち石川数正は徳川家から追われ豊臣秀吉に従うことになっています。のちに関ヶ原合戦に臨んだ徳川家康は「信康がいたなら」と悔やんでいました。まさに後悔先に立たずというところでしょうか。

※画像はイメージです。

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