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紀州に興亡と雑賀衆

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紀州の雑賀衆(さいかしゅう)は鉄砲を備えた本願寺門徒の集団。
「さいか屋」は、雑賀衆の後裔の方が開いた呉服店が基になっていると伝えられています。
雑賀衆の興亡について勉強してみました。

目次

紀州と雑賀衆

古来、紀州は統治が困難なところであると言われてきました。
領主の力が強く、豊臣秀吉による中央集権化が進展する前までは大名の影は薄かったようです。日本で宣教活動を行ったポルトガルのカトリック宣教師ルイス・フロイスも、紀州はまるで共和制をしいているようだと記しています。

紀ノ川などの河川を経由して、瀬戸内海や伊勢や東海と交易に有利な地域でもあり、戦だけではなくビジネスにも熱心であったということでしょう。
種子島への鉄砲の伝来後、紀州の根来が鉄砲の生産地の一つになったこともあって、いち早く鉄砲を取り入れ強力な軍事集団になりました。

一向宗や石山本願寺の影響があったのですが、それにも増して紀伊國南部にあたる熊野神社の影響が大きい地域です。
熊野神社は、平安時代までは皇族および貴族の参詣が多く、鎌倉時代には武士の参詣が多く、室町時代以降は一般民衆の参詣が盛んになりました。
八咫烏(やたがらす)は熊野神社のお仕えで、雑賀衆の旗印は八咫烏が描かれている事から影響の大きさを象徴しているでしょう。

雑賀衆の戦

雑賀衆は応仁の乱(西暦1467~1477年)の後、足利氏の一族である紀伊および河内の守護大名畠山氏の要請により近畿地方を転戦する間に傭兵的性質を有するようになりました。

16世紀には、織田信長と石山本願寺の間に激しい戦いが起こり、雑賀衆は主に石山本願寺側として戦いました。織田信長は、西暦1577年に6万の軍勢で紀伊に侵攻し雑賀衆と交戦し、両者共、大きな損害を出したようです。

本能寺の変による織田信長の急死や、羽柴秀吉による天下統一などを経験することになります。
羽柴秀吉は、天下統一の一環として、西暦1585年に紀州に10万の軍勢で攻め入り、雑賀衆の拠点であった城も攻め落としました。さすがの雑賀衆も、合理性と持続力とを兼ね備えた秀吉流戦法には太刀打ちできなかったのでしょう。

※画像はイメージです。

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