関東制覇を目論む北条氏に果敢に挑んだ里見義堯。
房総一の豪族・里見義堯の伯父・里見義通が安房一国を掌握して以来、里見氏は関東を席巻する北条氏との戦いに明け暮れます。
里見義通は幼い実子・義豊を残して病没したため、義通の弟・里見実堯(義堯の父)が里見氏の家督を継ぎます。
しかし里見義豊が元服すると家督争いとなり、里見実堯は家督争いに敗れ自死、里見義堯は北条氏綱の援助を得て、父の仇敵・里見義豊を討つため挙兵、里見義豊が籠る稲村城を攻めて、里見義豊を自刃させました。
壮絶な内紛を経て、里見家5代目当主となった義堯は、一代で房総における里見氏の領地を飛躍的に拡大、それは旧恩ある北条氏との戦いでもありました。 安房一国から房総半島全域に勢力を拡大した義堯、これは仇敵・里見義豊を討つために援助してくれた旧恩ある北条氏との戦いに発展します。
天文7年(1538年)11月1日、義堯は小弓公方の足利義明の要請を受け、自ら里見軍2000を率いて出陣します。
小弓公方の義明は、北条氏の意のままに動く古河公方・足利晴氏に我慢がならず、公方家の誇りを取り戻すため、北条氏へ戦いを挑むため、下総、上総の諸勢に号令、義明に従ったのは総勢1万を超える軍勢は、そのまま江戸川の東岸に進み、下総国国府台の高台に陣を敷きます。
この地は江戸川の上流松戸方面と、下流の市川方面の全ての渡河地点を見渡せる絶好の場所で、下総国の国府のあったところで、ここに立てば対岸から押し寄せる敵の動きを全て眼下に収めることができ見下ろす一帯は広々とした河原が広がり、視界を遮るものはなく、江戸川の国府台のみが高さ20mほどある断崖が、城壁のように岸辺に沿ってそそり立ち、およそ700mにわたり続いています。
しかし、この地の背後は台地がそのままの高さで、高低もなく広がり、それだけに背後からの攻撃は容易でした。
一方の北条氏綱は足利義明・里見義堯出陣の報せを受けて、相模小田原城を氏綱自ら嫡子・氏康を従え出陣、一旦は江戸城に入り、この地で武蔵、伊豆、相模の諸勢1万5000の集結を待ちました。
6日に江戸城を出陣、足利義明・里見義堯ら1万を超える軍勢が待ち構える江戸川の岸辺に到着したのは夕刻、氏綱は軍勢を2つに割ります。1隊を江戸川の上流、国府台の北方6km程の距離にある松戸相模台方面に迂回させ、夜陰に紛れて次々に渡河、残る1隊は翌7日早暁、足利・里見勢の待ち構える対岸を目指して、正面から江戸川を押し渡ります。
義明は国府台の背後にあたる北方、なだらかな平地からも敵が侵入することを予測して、弟・基頼と嫡子・義純を松戸方面に進出させます。義明自らは江戸川を見下ろす台地上に軍勢を展開、北条軍が江戸川を押し渡ってくるところを待ち構えて討つ策戦にでました。
北条軍による渡河策戦が開始されると、なにを思ったか、義明は北条軍が渡河を終えるまで攻撃を差し控えるよと命令、回りの者たちが、しきりに討ちかかるように進言しても、慌てることはないと言い、進言をことごく退けてしまいます。
義明は十分に引き付けてなければ渡河の途中で逃げられてしまう、敵をことごく討つには十分に引き付け一気に逆落としに攻める必要があると言い放つのです。
義明は、今回の合戦でおのれの豪胆な働きを関東の諸将に見せ付け、北条氏の意のままの兄・高基、その後を継いだ晴氏には関東を治められない、関東を治めるのは自分だと思い知らせたかったのです。
もともと父や兄の下でおとなしくしている性格ではなく、家を追い出された義明でしたが、義明にしてみれば公方として関東に号令する気概のない父や兄に任せていたのでは、威令は行われないと見ていました。 今は圧倒的に有利な位置に陣を敷いているだけに、北条軍など十分に引き付けた後、これを取り逃すことなく殲滅できると見なしていました。
一方の里見義堯率いる軍勢は、そこから2km程下流の市川の土手沿いに陣を敷いていて、北条軍が次々に江戸川を渡河し始めるのを遠く眺めながら、当然に敵が渡河を終える前に攻撃に移ると見ていましたが、足利勢が一向に北条軍に攻撃する様子が見られません。
北条軍の先陣は渡河を終え国府台の坂下に集結、足利勢が、これを一気に攻め登ってくる北条軍を追い落とす、そう義堯には見え、後続が渡河を終える前に攻めかかれば敵は大崩するのに、足利勢は何をしているのかと、義堯は大声で叫びました。
足利勢が攻勢に出れば続いて里見勢も次々に兵を繰り出せる、今のままでは、台地上の義明がどう動くか見極められず、里見軍も動きがとれない、もたもたしていれば里見軍の陣付近にも北条軍が渡河してくる恐れもある、義堯が国府台の坂下に兵を移動させれば背後を突かれかねない、その上、渡河を終えている北条軍を里見軍が一手に引き受けなければならなくなる事態も考えられました。
見渡したところ、上総や下総の諸軍は全く動く気配をみせていない、ようやく足利勢が攻勢を開始したと見て、激しい干戈の響きが伝わってきました。
国府台の坂を挟んで、両軍の激突する様子がはっきり見てとれました。
北条軍が味方の兵を後ろから押し上げるように、坂を登って行くのが遠くから見渡せました。
義堯はただちに正木時茂・時忠兄弟、堀口四郎左衛門、多賀蔵人ら第1陣を坂下に向かわせ、北条軍を牽制すると共に、機を見ていつでも討ちかかれる態勢を入り、その後、義堯はさらに安西式部ら第2陣を国府台下に差し向け、そして自らも長谷川隼人ら側近の兵を率いて戦いに加わるべく、全軍を前進させようとしました。
そのときです、物見に出していた吉岡大八が、あわただしく戻り義堯に報告、義明は北条軍を渡河させた後に一気に追い落とし殲滅する策戦にでましたが、松戸方面の基頼、義純の部隊が敵に包囲され討死にされる報せを受け、義明自ら松戸方面に向かったとの報告を受けて義堯は絶句します。何故なら国府台下の敵を目の前にしながら、本営を逸見山城入道と椎津隼人正に任せて総大将自ら一騎駆け兵の行動に出たからです。
義堯はすぐに長谷川隼人を、第1陣の正木兄弟と第2陣の安西式部らの部隊に走らせ、こちらから手出ししないように伝え、一方で吉岡大八を義明のその後の様子を調べさせます。 結局、北条軍が台地上に駆け登り最早、足利勢にこれを阻止することはできなくなっていました。
さらに北条軍は次々に部隊を繰り出していて、その勢いは抑えられなくなっていました。
前進か後退かを義堯が迷っているところに義明討死の報せ、義堯は正木兄弟に殿軍を任せて、国府台から撤退することになりました。
世にいう第一次国府台の合戦は足利義明という自分勝手な行動で、義堯は貧乏くじを引き敗戦の憂き目にあってしまいます。
しかしこの後、足利氏の没落に乗じて勢力を拡大した義堯は、北条軍との小競り合いを繰返しつつ、安房から西上総勢力を拡大、永禄7年(1564年)再び義堯は第2次国府台合戦に嫡子・義弘と共に北条氏康軍と戦いますが、再び敗れてしまいます。
しかし永禄10年(1567年)上総三船山の戦いで北条氏政軍に大勝、上総、下総に勢力を拡大します。
天正2年(1574年)に義堯は享年68才の生涯に幕を閉じますか、その生涯はまさに関東制覇を目論む北条氏との戦い、関東の雄の北条氏に挑んだ生涯といます。
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