戦後の日本には達成したい多くの悲願があった。
主権と領土を取り戻し国際社会に復帰すること、戦争によって疲弊しきった国民生活を貧困から脱却させ向上させること、そして、そのためのインフラや経済の復活。
そんなインフラ整備の要の1つが北海道と本州を結ぶ青函トンネル貫通だ。
荒れ狂う魔の海域、青函トンネルの夢物語
北海道と本州・青森の間にある津軽海峡は、昔から世界有数の潮流の速さや複雑さや春から夏にかけて発生する海霧など、船乗り泣かせの「魔の海域」と呼ばれるほど荒れ狂う海として恐れられていた。
そのため、大正時代には「北海道と本州の行き来をもっと安全で効率的なものにしたい」、「北海道と本州をトンネルで結びたい」という青函トンネルの原型ともいえる構想が持ち上がった。
しかし、技術的にも資金面でも当時としては荒唐無稽ともいえるような話。
構想自体はひっそりと生き続けていたものの、青函トンネル建設計画は夢物語として脇に追いやられていたのだ。
その後の太平洋戦争、そして終戦。
日本は敗戦から立ち上がり、国民が総出で手を、足を、頭を動かし続けることによって、時代は高度経済成長期へと向かう。
そのような最中、日本の発展にまさに水を差すように起きたのが、日本の海難史上最悪の事故とも言われる洞爺丸沈没事故だった。
1954年(昭和29年)9月26日、当時の気象状況の中で最悪クラスの規模であった台風15号の直撃を受けた青函連絡船「洞爺丸」他4隻が函館沖で沈没。
5隻合わせての死者・行方不明者は1,430名にものぼり、ただの不幸な事故として片づけるにはあまりにもむごたらしい結果を生んでしまった。
この洞爺丸事故をきっかけに、波に消えた多くの魂を鎮めるがごとく、青函トンネル建設は夢物語ではなく、早急に実現すべき国家プロジェクトにうって変わったのだ。
作業員死闘の四半世紀
ただの夢物語であった北海道と本州を結ぶトンネル構想は、実現すべき計画へと昇華した。
その必要性とは裏腹に、青函トンネル建設はまさに乗り越えるべき苦難の連続であった。
工事開始にもたどり着けない、難工事の序章
北海道と本州を繋ぐ、海底トンネルを作る。
字にしてしまえばあっけないが、これは戦後の日本の技術力をもってしても技術者たちの頭を悩ませ、作業員たちを恐怖させる難工事だった。
以前から続いていた津軽海峡の調査を引き継ぐ形で洞爺丸事故以降、青函トンネル建設に向けての地質調査は急ピッチで進められた。
しかし、相手は海底。
特に津軽海峡の底には断層がいくつも存在し、誤ってその断層を掘り進めてしまうと海水のすさまじい勢いで襲い掛かって来ることになる。
地質調査だけでも、実に20年近い歳月を要することになり、実際のトンネルが掘れるかどうかを確認するための調査坑と呼ばれる小さなトンネル掘りから工事がスタートしたのは、洞爺丸沈没事故から約10年が経った1964年のことだった。
作業員を苦しめる異常出水
1970年代に入り、青函トンネル建設工事が本格化する。
その工事現場で作業員たちを苦しめたのが異常出水だ。
この異常出水こそが、青函トンネル建設が世界有数の難工事と呼ばれる最大の原因だとも言われている。
現場では岩の隙間からまるで高圧洗浄機を全開にしたような勢いで、冷たい海水と泥が同時に噴き出す大小様々な規模の異常出水が頻発。
数多の作業員たちを苦しめた。
さて、ここで想像してほしい。
海面下200m、周囲を海底岩盤に囲まれた逃げ場のない場所。
掘削中のトンネル内部は暗く、40度近い暑さ、そしてすさまじい閉塞感。
そのようなただでさえ過酷な状況下で、人々はいつ起こるともわからない異常出水におびえながら日々の作業をこなすのだ。
当然、万全の注意は払われている。が、しかし、何の前触れもなく、突如として海水と泥が鉄砲水のごとく噴き出してくるのだ。
その泥水の勢いと水量がすさまじければ、そこまで掘り進めてきた努力の結晶たるトンネルは水没する。
それどころか作業員たち自身さえ、海の底の密室で避けようもない水攻めにあい、水死する可能性が高い。
作業員たちにかかる肉体的、そしてなにより精神的負荷は想像するだけでも息苦しくなるものだ。
そしてこの恐るべき事態は想像だけに留まらなかった。
青函トンネル建設工事最大の異常出水
1976年5月6日、北海道側の作業抗での工事作業中に突然、1分あたり約70トンもの海水が坑内に溢れだしたのだ。
暗闇の中に「異常出水!」、「早く逃げろ!」という怒号が響き、トンネル内は置かれていた作業用重機が押し流される阿鼻叫喚に陥る。
まさに出口の見えない狭い空間で津波が押し寄せるような恐怖。
青函トンネル工事史上最大規模の出水であり、史上最大の窮地だった。
作業員たちは噴き出す水の勢いと腰近くまで押し寄せる水位に恐怖しながら、必死に土嚢を積み上げセメントを流し込み、なんとか出水を食い止めることに成功。
トンネル全体の水没、そして作業員たちが海底に沈むことだけはかろうじて免れた。
長年の悲願達成、青函トンネルの開通
そして1983年、先進導坑がついに貫通。ようやく青函トンネル開通の兆しが見えた。
そしてついに1985年3月、トンネルが全面開通する。
長らく目の前の海底岩盤を相手にし続けた本州側作業員、北海道側作業員が互いに相まみえた瞬間だった。
しかし、その世紀の瞬間に立ち会えなかった者たちもいた。
青函トンネル建設工事中に、残念ながら事故によって亡くなった方々もいた。
殉職者は34名にも及ぶ。
青函トンネル建設は汗と涙と努力の結晶にように語られることも多いが、華々しい功績の裏でひっそりと命を散らした人々がいることも忘れてはならないだろう。
その後、試験運行などを重ね、1988年、ついに青函トンネルは開業。
北海道側を発車する一番列車はたった32分で世界最長の海底トンネルをくぐりぬけ、本州に到達したのだ。
北海道と本州を結ぶ。
まさに日本の悲願が達成した瞬間と言えよう。
そして、この青函トンネルが開業した日の夕方の便をもって、長らく北海道・本州間の人や物の行き来を支え続けてきた青函連絡船は約80年の歴史に幕を下ろす。
これによって、連絡船が通らなくなる津軽海峡での海難事故の可能性は圧倒的に減っていった。
事故が起こりにくい海で、青函トンネル建設のきっかけとなった洞爺丸沈没事故の犠牲者たちは安らかに眠ることができただろうか。
それとも自分たちは救われなかった状況に悔しさが増すばかりであったのか。
その心を知るのは静かな海だけなのであろう。
心霊現象より恐ろしい?老朽化する青函トンネル
34人もの殉職者が出た故に、いくつかの心霊現象が語られいる。
その話は別記事にまとめたので、興味のある方は読んでほしい。
さて、青函トンネルは1988年の開業からすでに35年以上が経過しており、過酷な海底環境ゆえの深刻な老朽化問題に直面している。
そもそも青函トンネルは開通後、多方面からの管理によってその安全性を維持しているのだ。
今なお毎分約20トンもの海水がトンネル内部に湧き出しており、24時間365日、巨大なポンプで汲み出し続けることで、トンネルの水没を食い止めている。
敷かれたレールも通常の地上区間に比べて金属部品の錆びるスピードが極めて速く、交換サイクルが短くなっている。
また、トンネル自体も地上のトンネルとは比べ物にならないほどの塩害に絶えずさらされており、鉄筋の腐食を引き起こしているのではないかと見られており、青函トンネルは何もしなければただの穴の開いたパイプとして津軽海峡の海底深くに放置するしかない状況になってしまうのだ。
青函トンネルの重要性と有用性は言わずもがな、だが、この世界随一とも呼ばれる海底トンネルをメンテナンスし、管理するだけの金と技術と人手が今の日本にあるのだろうか。
もちろん日々、トンネルの安全管理に努めているのだろうが、もしも完璧なパズルのピースが1つでもかけることがあれば。
洞爺丸沈没事故と同等、もしくはそれ以上の運輸事故が起きる可能性も決してゼロではない。
青函トンネルとはなにか
青函トンネルとは一体どのような存在なのだろうか。
単なる交通インフラだけではない。
日本が世界に誇る技術力の結晶だけではない。
1000人以上の命を飲み込んだ洞爺丸沈没事故の慰霊碑でもあり、この慰霊碑を作るためにさらに34名もの尊い命が捧げられたという墓標でもあるのだ。
もしも北海道と本州の間で新幹線に乗って青函トンネルを通ることがあれば、このトンネルの礎になった多くに人々の魂にひと時でも思いを馳せてほしい。
それこそが、悔恨と絶望の中で未だにこの津軽海峡の海底を漂っている魂を慰めるかもしれないのだから。
※画像はイメージです。


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