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芝山古墳群から出土した埴輪が伝える面影の謎

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倭の五王の時代に作られたと思われる千葉県にある芝山古墳群から出土した埴輪から、ただならぬ雰囲気を感じました。

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芝山古墳群から出土した埴輪

千葉県の太平洋に流れ出る木戸川上流の左岸の台地上にある、殿塚古墳および姫塚古墳から多数の埴輪が出土しました。埴輪列の雰囲気や列の顔の向き、女子および男子の埴輪、愛馬と思われる埴輪、そして埴輪達の表情から、これに関する記事に記載されているように、葬儀に関係しているのかもしれません。

ところで殿塚古墳女子の表情は、わが子を失った悲しみを歯を食いしばって耐えているかのように見えますし、殿塚古墳男子の表情は、よく見ますと、単に近親などが亡くなった悲しみ以上の深い悲しみ、例えば人生の目標を失ってしまったかのような悲しみがにじみ出ているように感じます。
そして、このような気持ちを表現している埴輪を作れた人達もすごいと思います。

埴輪の考察

さらに驚かされることは、我々に似ている顔つきと体形の埴輪とともに、鼻筋が通り丈が高いコーカソイド系の顔つきと体系の埴輪が多く出土していることです。応神天皇の時代に弓月の君が率いて来たという数万人の人々の末裔なのでしょうか?
これら埴輪からは、自分達のルーツに誇りを持っているような雰囲気を感じます。

倭の五王の後期と言えば、雄略天皇の厳しいリーダーシップのもと、大和朝廷の全国統一がほぼ成り、西暦645年の大化の改新へとつながってゆきます。千葉の地に勢力を蓄えていた殿塚古墳と姫塚古墳とを作った一族は、大和朝廷の圧迫を受けていたのでしょうか?
この時代、朝廷の覚えを失えば、滅びてしまう以外、道はないのですから、そういうことではなかったと思います。

大和朝廷との関わり

大和朝廷による統一後において、東国のこの地の近くには、伊勢神宮に次ぐ格式を有する、香取神宮と鹿島神宮とが利根川を挟んで設けられておりました。この時代、我が国において、「神宮」と呼ぶことを許されているのはこれら三神社だけであり、香取神宮と鹿島神宮とが東国に在るというのは不思議な気がします。

そして香取神宮の神様が国務大臣のような役目を果たし、鹿島神宮の神様が国防大臣のような役目を果たすことによって、出雲の国譲りが成就されたということですから、利根川に近い千葉県の芝山区域は、国の重要地帯であったのかもしれません。

地域の一部に殿塚古墳と姫塚古墳とを築いていた一族は、大和朝廷と深い係りをもっていて、埴輪の悲しみはそのことに関係していたのかもしれませんが、今となっては、知るよしもありません。まさに、埴輪だけが知っていいるということです。

写真は掲載するわけにはゆきませんので、芝山古墳・はにわ博物館の殿塚古墳女子および殿塚古墳男子等のwebをご参照ください。

featured image:English: Abasaa日本語: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons(芝山古墳群/ 殿塚)

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