巨匠 庵野秀明監督の実写ゴジラ映画である「シン・ゴジラ」が公開された2016年から7年を経た2023年11月、 山崎貴監督による新作の実写版ゴジラ映画「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)が公開された。
山崎貴監督はこの「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)において、VFXと脚本と監督の3役を一人でこなし、公開翌年の2024年3月に開催された第96回アカデミー賞で邦画及びアジア映画として史上初となる視覚効果賞を手にした。
こうした栄誉あるアカデミー賞の視覚効果賞受賞だけでも十分に世界が認めた作品となった事は間違いないが、従来の同賞の受賞作品が膨大な予算を投じた大作映画だった事に比して、僅か15億円弱と言う限られた予算内での受賞にも注目が集まっている。
これを反映して山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)は、日本の実写版のゴジラ映画の30作品の中でも最高傑作との呼び声も高いが、全体の内容だけでなく登場する兵器にも独自性が打ち出されていた。
この「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)では、敵であるゴジラを倒す兵器として、旧大日本帝国海軍の局地戦闘機として試作に終った「震電」が用いられ、その知名度の向上にも貢献したと思われる。
今回はそんな旧大日本帝国海軍の局地戦闘機として、実際には試作1機のみで終った「震電」について、及ばずながら紹介をして見たいと思う。
旧大日本帝国海軍の局地戦闘機「震電」とは
旧大日本帝国海軍の局地戦闘機「震電」は実際の機体は僅か1機が試作されたのみで日本は敗戦を迎えた為、史実において実戦投入された記録はないが、その特異な形状から多くの書籍や作品で取り上げられてきた。
今回の実写映画である「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)のように、「震電」自体が主体的な活躍を見せる作品と言うのは多くはないが、そうした起用をされる大きな理由に同機の形状がある事は想像に難くない。
第二次世界大戦における日本を含めた各国の戦闘機の大半は、機体の機首部分にプロペラと機関部と兵装を集中的に配置したレイアウトが標準であり、当時の航空技術では最も理に叶ったオーソドックスな形であろう。
しかし「震電」は機体の機首部分にあったプロペラと機関部を後方へと移し、加えて尾翼の水平翼を廃して機首部に小型翼として取り付けを行い、そこに兵装とともに配置、機体は前翼型と呼称されるレイアウトを採用したものとなった。
前翼型は機首部に小型翼を設けた事で、主翼を小型化しても十分な揚力を得る事が可能で、そのレイアウトから機体全体のコンパクト化と空気抵抗の減少の実現により、従来機よりも高速を発揮させる事を指向している。
こうした「震電」の前翼機としてのコンセプトは、1942年から翌年にかけて海軍航空技術廠の飛行機部の鶴野技術大尉が考案したものとされ、これを1943年より軍令部参謀となった源田中佐が後押しする形で推進された。
当時はアメリカやイギリスやイタリア等の国々でも単同式の前翼機の研究・開発は行われてはいたが何れも実用化には至らない状態だったが、旧大日本帝国海軍では戦局の悪化もあり、積極的に新型機による劣勢の挽回を目指す為、その取り組みを進めたとも言えるだろう。
「震電」の特徴
旧大日本帝国海軍が開発しようとした最大の理由は、その特異な前翼機構造によって従来の同軍の運用する機体を遥かに凌ぐ、時速約740km以上と言う高速度を達成すると言う点にあった。
但し旧大日本帝国海軍の零式艦上戦闘機や、旧大日本帝国陸軍でも一式戦闘機や五式戦闘機に象徴されるように、当時の日本の戦闘機運用は格闘戦を重視する傾向が強く、こうした用兵側の要求に開発側も与してきた感が強かった。
しかし「震電」においては、こうした戦闘機における格闘戦優位のコンセプトを捨て、日本本土に戦略爆撃を加えてくるアメリカ軍の超大型爆撃機 B-29を迎撃する目的に絞り、高速度と4門の30mm機関砲の火力でこれを行う事を前提とする。
それにより時速約740km以上と言う高速度を達成すべく、「震電」には最大で2,130馬力を発生させる三菱重工業社製のハ43-42という星形複列18気筒の機関部が採用された。
また主兵装の30mm機関砲は、五式三十粍固定機銃で4挺すべてが機首部に搭載され、1挺あたり60発で合計240発の携行が可能で、加えて爆装としては60 kg若しくは30 kgの爆弾を主翼下に4発懸架する事が出来る。
燃料の搭載は胴体内部に400リットル、主翼内部に400リットルのタンクを備え、また主翼下に懸架可能な増槽にはこれに加えて200リットルのもを2つ装備する事が可能となっていた。
燃料タンクは総ゴム製による自動防漏機能を備えており、これに加えて自動消火装置も装備され、被弾時にもワンショットで撃墜されるようなことがないように配慮されていた事が窺える。
「震電」の製造
1944年5月、主にアメリカ軍の大型爆撃機による日本本土への爆撃を阻止する計画の一環として試作の命令が下り、同年内に試作機を完成させると言う異例の速度で開発が進められる事となった。
実際に通常であれば凡そ1年半ほどの歳月が必要と目されてきた図面の製作は1944年11月末には完成したが、肝心の機関部・三菱重工業社製のハ43-42を生産する同社の名古屋工場は1944年末から翌年5月までにB-29の断続的な爆撃でその機能を喪失する。
そうした中で「震電」は何とか試作機1機が1945年6月に完成、福岡の蓆田飛行場に持ち込まれ同年8月3日に初飛行に漕ぎつけたものの、12日後の15日には日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦となった。
結果的に日本側がその迎撃を目指していたアメリカ軍の大型爆撃機B-29の空爆によって、完成時期が遅延し試作機1機のみの生産で敗戦を迎えた「震電」だが、順調に進めば戦果を挙げる事が出来たのだろうか。
歴史にifは禁物とよく言われるようにそうした仮定の話は困難ではあるが、旧大日本帝国海軍が「震電」に要求していた時速約740km以上と言う高速度は、実は敵であるアメリカ軍は既にそれ以上の性能を実現させていた。
アメリカ軍は自軍の大型爆撃機・B-29を護衛する戦闘機として、1945年8月15日の時点でP-51戦闘機の最新型であるH型を370機実戦配備しており、同機の最高速度は時速784Kmと「震電」を凌駕していた。
そこから考えれば仮にある程度の数の「震電」がB-29の迎撃に投入出来ていたとしても、P-51H型に阻まれていた公算は大きく、いずれにせよ戦局を変えるような戦果には繋がらなかったと思われる。
現在の「震電」
1945年8月15日の日本の敗戦時に、海軍上層部の命令で1機の試作機を除いてすべての準備中の機体も含めて焼却処分されたものの、試作機は試験場所であった福岡の蓆田飛行場で原型を留めていた。
この試作機の1機は1945年10月に戦利品としてアメリカ軍に接収され、アメリカの首都・ワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館内のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設で分解された状態で保存されてた。
2017年以後は同じく同博物館の別館で機首部分から操縦席までの前部のみが展示に供されており、完全体ではないとは言え、世界で唯一の「震電」の実機はそこに残されている。
日本では冒頭でも述べた山崎貴監督の実写映画・「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナスワン)の撮影用に作られた実寸大のモックアップの「震電」が福岡の大刀洗平和記念館に2022年7月以降、展示されている。
僅か1機しか実在していない「震電」を自国で見られない事は正に慙愧に堪えないが、これも敗戦国の哀しい宿命として甘んじて受け入れるしかないと言うのが現実なのだろう。
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