深い山間にある温泉街、鄙びた雰囲気が漂う、ある旅館の特別室は妙な噂が絶えない。
この部屋には大きな古鏡があり、訪れる者はみな奇妙な体験をするというーー。
冬の日、八郎は日頃の重労働から逃げ、心労を癒やすためにやってきた。
この旅館はかつては遊郭だったのを改装し、建物やら内装やらに歴史を感じられ、その筋の琴線に触れる穴場として知られている。
その中でも、特別室は極まって素晴らしいという話だ。
八郎は噂を聞いたことがあるが、たいした事ではないと言うのだ。
旅館の女将に部屋を案内された。
「部屋にある鏡は特別なものでございますが、あまり近づかれないほうがよろしいでしょう」
妙に歯切れが悪い様子。
だが知ったことでない、疲れ切った体を布団に投げ出す。
寝転がりながら部屋の造形を魅入っていると、鏡が目につく。
女将の言葉を軽く流したのだが、どうにも気になり、その前に立ってみた。
鏡に映るのは確かに八郎自身だった。だが、違和感を感じた。
鏡の中の八郎は、微笑みながら顔をじっと見つめていた。
現実の八郎が首を傾けると、鏡の中の自分も同じように傾けた——いや、ほんの少しだけタイミングが遅れ、口ずさむように唇が動いているように見えるのだ。
「そんな馬鹿な事があるか、疲れているのだ」
そう思い布団に戻ると無性に眠くなる、目が冷めているのか、寝ているのか解らない。意識がはっきりしないが、部屋に中に自分以外の誰かがいる気配を強烈に感じた。
月明かりだけが差し込み薄暗い部屋で、やけに鏡だけがはっきり見えた。
鏡の中には——そこに映る八郎——いや、もう一人の自分が、鏡からこちらをじっと見つめているのだ。
その表情は明らかに不自然な笑みを浮かべている。抗えない恐怖心が込み上げてくる。
「助けて」
突然、鏡の中の自分がそう囁いたように聞こえた。
どこか冷たく、深い悲しみに満ちていた。
部屋全体が凍りついたように寒くなり、八郎の体は金縛りに遭ったかのように動かなくなった。
次に気がついた時、八郎は部屋の入口に立っていた。
「なんだ、寝ぼけたのか」
部屋の扉をあけて中に入っていくと、目の間に鏡が立ち尽くすように置かれ、鏡の中で見た自分が笑んでいる。
翌朝、女将が朝食を持って部屋にいくと、八郎の姿が見当たらない。
鏡の表面には不気味な指の跡が無数についていた。
鏡を覗くと八郎の顔が微かに映り込んでいるように見えて、何かを口ずさんでいるかのようだった。
※画像はイメージです。
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