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御霊信仰とは?死後に祀られた祟り神たち

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あなたは日本独自の信仰体系、御霊信仰をご存知ですか?
非業の最期を遂げた偉人を死後に神として祀り上げるこの風習は、神道における荒魂の概念と密接に関わってきました。
今回はそんな御霊信仰の歴史や実態をご紹介していきます。

目次

御霊信仰とは?

御霊信仰とは天災や疫病の蔓延を非業の死を遂げた人間の怨霊の仕業とし、その人物を死後に祀り上げることで鎮める信仰のこと。始まりは平安時代まで遡ります。当時は政争で失脚する人間が絶えず、無念の内に息を引き取った彼等が、死後に祟って復讐すると考えられていました。反乱で討たれた朝敵も怨霊に数えられます。
古くは藤原広嗣・井上内親王・他戸親王・早良親王など。

藤原広嗣は眉目秀麗で文武の才が突出した人物でしたが、自己本位な性格を橘諸兄に疎まれ、彼が政権を握ると同時に大宰府に左遷の憂き目に遭います。
井上内親王は夫である光仁天皇を呪詛した嫌疑を掛けられ、弟の安積親王の崩御を待って退任。

他戸親王は井上内親王の実子にあたり、皇太子として産声を上げたものの、母の失脚に伴って庶子の身分に落とされた上、幽閉先で親子ともども変死を遂げました。井上内親王と他戸親王の死には不自然な点が多く、暗殺説も囁かれています。

早良親王もまた光仁天皇の子ですが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃位され、苦しい断食の果てに息絶えました。共通点は宮廷の謀略に巻き込まれ命を落としたことで、中には政敵に冤罪を着せられた者もおり、相当な恨みを募らせていたと見られます。そこで人々は死後に諡号や官位を贈り、亡者のご機嫌を取りました。

怨霊を鎮魂する宮中行事 御霊会

無念の死を遂げた怨霊の災いを避けるべく、平安期の宮廷では御霊会と呼ばれる行事が催されました。
歴史上最初に行われた御霊会は863年(貞観5年)、5月20日神泉苑にて。開会の動機は前年に流感を患い、清和天皇の大叔父2人を含む、多数の皇室関係者が死去したこと。
宮廷の実権を握る太政大臣藤原良房が還暦を迎え、清和天皇の元服を翌年に控えた状況を考慮し、皇室関係者を守り、世を安んじる為に御霊会を行ったと文献には記されています。

この時は崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)の計六柱が祀られました。
余談ですが、日本では神格を得た存在を数える際に「柱」と呼びならわします。
由来には諸説あり、天皇の供養の為に柱を立てて神を招き入れる古墳時代のしきたりや、自然の樹木に神霊が宿るとする、神道の考え方が有力視されています。
彼等は六所御霊と呼ばれ、京を脅かす天変地異の元凶と信じられていました。

御霊会では金光明経や般若心経が読まれ、歌舞音曲や庶民参加の踊りが実施されます。後世には各地の寺社にも広まり、神輿を担いだ行列や風流・田楽踊りも奉納されました。実施の時期が旧暦の5月~8月に偏っているのは、その頃に疫病が流行した背景と無関係ではありません。
格式を重んじる宮中行事には例外的に身分を問わず参加できたのは、天災の頻発に不満を溜めこんだ、市井の人々のガス抜きを目的にしていたからだと言います。

日本三大怨霊 崇徳天皇・菅原道真・平将門

日本の三大怨霊は崇徳天皇・菅原道真・平将門。いずれも朝廷の謀略に関わり、悪辣な罠に嵌められ、悲惨な死に方をしたことで知られる人物です。

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子にあたる第75代天皇。ですが在位中は不遇を囲い、鳥羽上皇と確執を抱えていました。
何故なら鳥羽上皇は、崇徳天皇が自分の祖父の白河法皇と、正室・藤原璋子の不義密通の子ではと睨んでたのです。
その疑いを決定付けるかのように鳥羽帝に譲位を迫り、まだ幼い崇徳帝を天皇に押し上げるべく画策した白河法皇。
鳥羽帝はこれを生涯根に持ち、白河法皇亡きあと崇徳帝に二度も譲位を迫り、彼の異母弟を天皇に指名しています。
父親に「叔父子」……倅に非ず叔父と呼ばれ、臨終時の面会や遺体を見るのさえ拒まれた崇徳帝。
彼の不幸はまだ終わらず、父の死後に謀反を疑われ、讃岐へと流されました。

都を遠く離れた讃岐の地に幽閉された崇徳天皇は、仏教に傾倒して熱心に写経を行い、戦没者の成仏を祈り、五部大乗経の写本を京都の寺に納めてほしいと願います。
しかし異母弟の後白河院は「写本に呪詛が込められている」と断り、それに怒り狂った崇徳帝は舌を噛み、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と自らの血で写本に書き入れたのち、おどろおどろしい蓬髪の夜叉へと変じたそうです。

遺作の和歌は「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」
死後は蓋を閉めた棺から際限なく血が流れだしたというのですから、恨みの深さが伝わってきますね。
菅原道真も政争に敗れ、大宰府に流されます。左遷後は俸給と従者を取り上げられて衣

住に事欠き、たった2年で他界。
最後の平将門は鎮守府将軍・平良将の子に当たる関東の豪族で、先祖は桓武天皇の血を引いています。
平将門は下総国・常陸国で起きた平氏一族の反乱を率い、当代の朱雀天皇に対して新皇を名乗りました。
されど即位後2か月足らずで藤原秀郷・平貞盛の連合軍に討たれ、その後は怨霊として猛威を振るいます。
関西では逆賊として恐れられている将門ですが、関東では英雄視する傾向が決して少なくありません。
それは十和田湖噴火による降灰で未曾有の不作に見舞われた、東国の民の為に立ち上がったと思われているから。
多々ある伝説の中で最も恐ろしいのは、京都の七条河原に晒された将門の首が何か月にも亘って目を剥き、歯軋りを続けた話。

藤六左近がその情景を歌に詠むと、突如として生首が哄笑を始め大地が轟き、稲妻が空を切り裂きました。
やがて将門の生首は「躯付けて一戦せん。胴はどこだ」とのたまい、白い閃光を放って空の彼方へ飛んでいったそうです。この首が落ちた所が千代田区大手町の将門塚というのは有名な話で、移転計画が持ち上がる都度、工事関係者に不幸が相次ぎました。

広義の御霊信仰 虫送り

祖霊信仰とは亡き先祖の想念が子孫に影響するとし、先祖を手厚く祀ることで、現世で幸せになろうとする概念。
祖霊信仰が正の力をもたらすなら、御霊信仰で働くのは負の力。御霊信仰の亜種として位置付けられる疫神信仰では、疫病神や疱瘡神といった、病を振り撒く超自然的存在が寺社に祀られました。
御霊会で祀られた怨霊が都の繁栄に寄与するのと同じく、疫神信仰にも御利益が見込まれます。

当時の疱瘡は日本人の殆どが幼年期に罹患し、苦しめられてきた病。回復後も醜いあばたが顔に残り、最悪失明するケースもあることから、「見目定めの病」と呼ばれていました。
その一方で疱瘡を克服した者は、死神さえ撥ね付ける強運を身に付け、奉公先や嫁ぎ先に福を呼び込むとされたのです。

田舎の農村で行われる虫送りも、御霊信仰の一種と考えられていました。虫送りの対象となる実盛虫の由来は、『平家物語』に登場する平家の武将・斎藤実盛。篠原の戦いの最中、田んぼの稲株に馬が躓いて倒れた所を討ち取られた実盛は、それを恨んで虫に生まれ変わり、稲を食い荒らすようになったと伝えられています。
故に虫送りは別名実盛送り、実盛祭、実盛さんと呼ばれているのでした。崇徳天皇らが怨霊に化けて祟った一方で、実盛は虫に転生後も、執念深く恨みを持ち越しているのが面白いですね。

※画像はイメージです。

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