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学問の神様 菅原道真の数奇な生涯!太宰府天満宮で怨霊化って本当?

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皆さんは崇徳上皇、平将門に並ぶ日本三大怨霊の一角・菅原道真をご存知ですか?学問の神様として信仰を集める彼は、権謀術数渦巻く政争に巻き込まれて失脚し、非業の最期を遂げたことで知られています。

今回はそんな波乱の生涯を送った菅原道真の知られざる逸話や、太宰府天満宮に祀られることになった経緯をご紹介していきます。

目次

菅原道真の生い立ち

菅原道真は承和12年6月25日に菅原是善とその妻・伴氏の三男として産まれました。
幼少期の道真は神童として知られていました。
貞観4年(862年)には18歳で文章生に、貞観9年(867年)にはその中でも特に優れた文章得業生に昇格。
貞観12年(870年)には官吏登用試験『対策』の優秀な成績で合格し、正六位上の地位を手に入れます。
仁和2年(886年)には讃岐守に任命され、式部少輔兼文章博士を辞し、讃岐へと出向しています。

讃岐とは讃岐うどんが名産の香川県に当たり、「四国の他の国より狭いため『狭緯(さぬき)』と称した」と伝えられる僻地。左遷宣告に道真はショックを受け、送別の宴にて「詩を詠め」と基経に命じられても、嗚咽に詰まって果たせなかったそうです。
讃岐赴任直後の道真は菅原家が地方役人の家系でないにも関わらず、京を遠く離れた田舎に飛ばされたことを嘆いていました。
されど誠実な仕事ぶりと采配が評価され、現地の民に慕われるようになると、自己評価が高まっていきます。仁和3年末に一時期帰京した際は、「道真様はもう戻ってこられないのではないか」と民に惜しまれたというのですから、愛されぶりが伝わってきますね。
讃岐への転地は左遷にあらず、栄転と見る学者も近年は増えています。

その根拠となるのは歴代讃岐守の出世。九世紀半ば以降の讃岐守は参議・京官を兼ね、京都にいながら讃岐を治めるのが主流になり、彼等の多くが最終的に二位・三位の重職に列せられています。
早い話讃岐守とは高給を貰える官職で、将来を嘱望された若手が経るポスト……エリート官僚の通過点と考えられていた節があります。いまいちぴんとこない人は、若手が数年単位で支部に出向する慣例を思い描いてください。
当時の讃岐は田舎でこそあるものの、民の気質や気候が穏やかで、統治しやすい土地と認識されていました。経験を積むにはぴったりかもしれません。

宇多天皇の寵愛を独占!周囲の嫉妬を一身に集める

寛平2年(890年)に正式に帰京した道真は、病没した橘広相の空席を埋める形で、宇多天皇の側近・蔵人頭に指名されました。
これは大変栄誉な人事ですが、もとより学者肌で謙虚な道真は、蔵人頭を辞任したいと申し出ています。
出る杭が打たれるのは今も昔も同じ。この頃から宇多天皇に寵愛をうける道真を嫌い、異例のスピード出世を妬む人間が増え始めます。
その後も快進撃はとどまるところを知らず、数々の重職を兼任して辣腕を発揮。
宇多天皇の信頼も篤く、敦仁親王の皇太子指名時には、ただ一人だけ相談を受けていました。

そんな天皇のお気に入りを政治の中枢から遠ざける陰謀が働いたのか、寛平6年(894年)には遣唐大使に命じられるものの、これは唐の滅亡によって実現に至りませんでした。
前提として、遣隋使・遣唐使は死と隣り合わせの過酷な任務。造船技術の未熟な木製の舟で航路を往復するのは大変な危険を伴い、日本を出港した船のうち、一隻でも帰り着けば幸運と見なされていました。道真が嫌がるのは当然かもしれません。

寛平7年(895年)には藤原国経・藤原有実・源直の先任三名を飛び越え、従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。翌年には道真の長女・衍子が宇多天皇に女御として嫁ぎ、寛平10年(898年)には三女・寧子が、宇多天皇の皇子・斉世親王の妃になりました。
一見順風満帆な人生を送っているかのように思えますが、天皇に贔屓される道真を恨む人間は絶えず、宮廷は針のむしろだったのかもしれません。菅原家は政争と相性の悪い文官一族で、宮廷で権勢を誇った藤原氏に比べ、宮廷における地位は然程高くありませんでした。

ライバル・時平の策謀と醍醐天皇の裏切り

寛平9年(897年)、藤原時平が大納言兼左近衛大将に、道真が権大納言兼右近衛大将に任命。
まもなく宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位するも、その際も息子に道真の重用を強く求め、相談役として頼るように勧めています。
醍醐天皇の治世に移行しても宇多上皇は道真を手放さず、たびたび御幸や宴に連れ回しました。

昌泰2年(899年)、道真は右大臣に、時平は左大臣に昇進。道真は喜ばず、貴族の誹謗中傷を理由に辞職を訴えます。文章博士・三善清行に「引退して生を楽しめ」と諭されたことも、厭世的な感情に拍車をかけていました。
悪い予感は的中し、昌泰4年(901年)、時平の讒言により「宇多上皇をだまして取り入った」「醍醐天皇を廃し、娘婿の斉世親王を皇位に就けるべく画策している」噂が広まります。

宇多上皇が火消しに回った時には既に手遅れ。醍醐天皇への陳情は藤原菅根に阻まれ、道真は九州・大宰府に追放。本人のみならず長男・高視含む子供四人も流刑に処され、菅原一族の再起は絶望的になります。

大宰府での悲惨な暮らしと死後の祟り

裏切りを疑われた道真は、自腹を切って大宰府に移動し、大宰府浄妙院で蟄居します。左遷後は給料や従者を与えられず、政治への関与を禁じられ、衣食住にも窮する極貧生活を強いられました。
『菅家後集』に収録された「叙意一百韻」には、大宰府に流された道真の悲痛な心情が綴られています。
その僅か二年後、延喜3年(903年)に道真は死亡。還暦を目前にした死は、流刑の心労が祟ったものでしょうか。

「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」
「心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん」

上記は道真の遺作の詩。独り雪景色を眺め、梅の花となって京都に帰りたいと歌っているのが切ないですね。

道真の亡骸は門弟・味酒安行(うまさけやすゆき)によって牛舎に乗せて運ばれました。
しかし途中で牛が座り込んで動かなくなり、それを師の思し召しと受け止めた安行は遺体を葬り、上に祀廟を築いたといいます。これが太宰府天満宮の起源でした。

道真の祟り?清涼殿に落ちた雷

道真の死後、京は様々な災難に見舞われました。まずは延喜8年(908年)、宇多上皇と醍醐天皇の面会を妨げた藤原菅根が突然の病死。
翌延喜9年(909年)、39歳の若さで病に倒れた藤原時平を見舞った三善清行は、時平の耳から龍と化した道真の怨霊が出てくるのを目撃。「加持祈祷をやめろ」と脅され、やむなく僧侶が従ったところ、苦しみ悶えて息を引き取りました。

延喜13年(913年)には右大臣・源光が狩猟の最中に泥沼で溺死。晩年の道真を冷遇した貴族の変死と相前後し、都は洪水と大火に襲われ、咳病と水疱瘡が流行り、大路に死骸が溢れました。
延喜23年には醍醐天皇の皇子・東宮の保明親王が倒れ、延長8年(930年)には朝議中の清涼殿に雷が落ちて炎上し、多数の死傷者を出す大惨事に。
それを目の当たりにした醍醐天皇も三か月後に崩御し、怒り荒ぶる雷神、「天満大自在天神」となった道真が復讐を遂げたと言われました。

事件後、道真は右京七条に住む多治比文子に「北野馬場に祠を建てよ」と託宣を下します。
すると一夜にして千本の松が生える奇跡が起こり、死後も健在の威光を見せ付けたのでした。
才能故に不遇を囲い、大宰府で果てた菅原道真。片や学問の神様として、受験生に仰がれている事実は心に留めておきたいです。

※画像はイメージです。

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