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「只野真葛」の生き方

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只野真葛(ただのまくず)は、江戸時代の中期から後期の現代風に言えば女性随筆家。
「真葛」は随筆の筆名で本名は「綾子」、西暦1763年に生を受け西暦1825年に63歳で死去。

禄高1200石の只野行義(ただのつらよし)の後妻となり、実家の工藤家に盛衰があったものの、概して裕福な生涯を送った。一方、幼いときから人の益になろうと考えつづけ、10歳の時に経験した明和の大火の経験から「経世済民(上から目線ではあるが、世の中をおさめ民を救うことで、中国古典よりのことば)」について考えるようになったといわれている。

只野真葛の生き方について考えてみたい。

目次

環境

綾子の父、平助は紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であったが、伊達藩の侍医 工藤丈庵の養子となった。
結婚後築地に邸宅を構え、患者として大名や藩士、蘭学者、尊王思想家、国学者、儒者、歌人、歌舞伎役者、侠客、芸者などが出入りしていた。

蘭学、西洋医学、本草学に通じ、訴訟の弁護なども手掛け、藩命により藩の財政を担当したこともある。
平助のところには、長崎や松前からも知恵を借りたいという者が訪れるようになり、南下するロシアを含む西洋の事情を知ることができた。

綾子は、このような環境の中で少女時代を過ごし、父に対する敬慕の念は多くの人々が父を頼りとする雰囲気の中で形成されたといわれている。
綾子は才気にあふれ身体も丈夫で、母の勧めで16歳で奥女中奉公を始めた。町家から勤めにあがった者達の話から武士に対する町人の憎しみの念が強いことを知って驚いたのだった。

半生

綾子には、弟2人と妹4人がいたが、1786年に後継者として育てられてきた上の弟、長庵が22歳の若さで死去。築地の工藤邸は1784年に焼失してしまい、世話人に預けた金を使い込まれてしまった。
日本橋浜松町の医師が平助に同居を提案し、工藤一家はここに住むことになった。

綾子は27歳のとき、最初の結婚をしたが失敗に終わり実家に戻され、母が病気がちになったため、弟妹の世話をするようになった。
30歳のとき母遊が亡くなり、35歳のとき、仙台藩の上級家臣であり妻を失っていた只野行義と再婚した。
このころ、父、平助は、衰えはじめており、下の弟である源四郎の後ろ盾の意味もあって、只野行義との再婚を望んでいたので、綾子は同意したのである。
父の望みであれば、どんな苦労も辞さないという気持ちであったという。

考え方

「真葛」という筆名は父親が大切にした「工藤」という家系が、葛の蔓のように連綿とつながってゆくことを望んだところからきているという。ここには医家の娘としての、家の継続を強く望む心と誇りが現れている。

夫の行義は読書人であり、平助とも親しかった。行義は綾子の影響で和歌も詠むようになり、綾子も行義を深く愛するようになっていった。
平助は、綾子が女らしさを失うことを危惧して、儒教や国学を学ぶことを抑えていた。しかし綾子は、成人した弟源四郎の助けを得て学び、私見を述べるまでになっていった。

例えば一介の女性でありながら、二千年にわたって東アジア諸国で尊重されてきた儒教を男尊女卑の面があると真正面から批判し、意見を聞かれて仰天した滝沢馬琴から強い反論があった。
滝沢馬琴も本来は武家の出であったため、只野真葛の意見に驚愕し同意もできなかったのであろうが、真葛のことを、男にも負けない魂を有していると感服もしている。

結局

行義は綾子が詠んだ和歌や、綾子が作成した随筆や現在でいえば論文のようなものを、書き留めておくことを勧めた。行義は高い社会的立場に似合わず、開明的な人物であった。
綾子は良い伴侶を得たと言える。

行義の先妻の子供達も綾子によくなつき、誇りは高いが自分本位ではない、綾子の人間性が幸いをもたらしたのであろう。

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