武田、北条を手玉にとった智謀、今川義元の宰相の「太原雪斎」

武田信玄、北条氏康を手玉にとった智謀の如き、今川義元の宰相の太原雪斎(たいげんせっさい)。

僧籍名を太原崇孚(たいげんすうふ)、彼が「雪斎(せっさい)」と呼ばれたのは住居としていた臨済寺の子院の名をそのまま用いたからです。
雪斎は今川義元の軍師・参謀といわれ、また補佐役とか黒衣の宰相などとも称され、いずれも適切とは思えません。
あえて言うならば、雪斎は義元時代の今川の存在そのもので、文化・軍事にいたる全てを執り仕切った人物です。

その絶大な権力の背景は、義元と特別な関係にあり、雪斎がまだ九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と称して京都・建仁寺で勉学中、今川氏親から呼び戻され、氏親の三男芳菊丸のちの義元の後見役を頼み、雪斎は受け入れました。
時に大永2年(1522年)のことで雪斎27歳、義元8歳で以後、雪斎は義元の学問の師として、養育者として起居を共にします。

天文5年(1536年)3月、今川家当主の今川氏輝の死で、今川家の家督相続争いが勃発、義元派と良真(よしざね)派に分かれ家中は騒然となります。
雪斎は義元派を糾合するや、機先を制して良真を花倉城に攻め滅ぼし、早々に家督問題に決着をつけました。
この雪斎の辣腕ぶりに今川家の一門衆や家臣団はすっかり心服してしまった。

「智謀の如し」と恐れられた雪斎の特長は、卓越した戦略眼と外交手腕にあり、義元が家督相続すると、それまで親交を結んでいた相模の北条氏との関係を断ち、甲斐の武田信虎の嫡男晴信(信玄)に三条公頼(さんじょうきみより)の娘を斡旋、武田氏に接近しました。

天文6年(1537年)には信虎の娘を義元の正室に迎え入れ、今川と武田の両家を固く結び付け、天文15年(1546年)10月、尾張の織田信秀が三河に侵入、岡崎の松平広忠が救援を求めて来たのを機に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入、次第に西三河支配の地盤を固めました。
そんな時、今川氏の人質として出された広忠の嫡男竹千代(のちの徳川家康)が途中田原城主の戸田康光の裏切りで織田信秀に売り渡される事件が起き、この竹千代を餌に信秀は広忠に今川氏からの離反を迫ります。

天文17年3月19日、信秀は5000の織田軍を率いて三河に侵入、岡崎の南東3キロの丘陵地の小豆坂にさしかかったところで、今川方、雪斎を大将とした今川軍2万5000の軍勢が小豆坂を登っていました。
両軍とも、坂道を敵情が分からないまま、突き進み、先鋒部隊同士が正面衝突、今川方が朝比奈泰秀の部隊、織田方が織田信広の部隊で両軍入り乱れての白兵戦となり、優勢、劣勢を繰り返し、激しい戦闘が続き、そこへ今川方の岡部元信隊が横合いから突撃、織田方が総崩れとなり退却しました。これが世にいう小豆坂の合戦です。

天文18年(1549年)11月、雪斎は7000の軍勢を率いて、西三河の要衝の安祥城の織田信広を取り囲みました。
布陣は雪斎と朝比奈泰能が城の大手口、城の南に三浦義就、城の北に板尾顕茲、搦め手口に岡部元信、鵜殿長持らを布陣させ、これに対して、信秀は平手政秀を救援に送りますが、待ち構えていた松平勢これに襲いかかり、信広は救援軍を城内に引き入れようと、城兵700と共に討って出ました。

この機を逃さなかった雪斎は、今川勢に総攻撃を命じ、激しく攻め立てます。戦況不利とみた信広は城内に退却、今川勢は追い打ちをかけて城内に乱入、二の丸、三の丸を破って信広を降伏させます。信広を捕らえた雪斎は信秀に竹千代との人質交換を交渉、この交渉が成功して竹千代は今川氏の人質となり、主なき岡崎城は今川支配下となり、西三河から尾張へ進出という義元の上洛への道をつくるのです。
義元が西上するにあたり、気がかりとなるのが相模の北条氏康の動向、北条は武田・今川同盟以来、たびたび駿河東側の富士川の東側を侵略、寺院や村を焼き払っていました。

そこで雪斎は関東管領の山内上杉憲政を誘い込み北条氏の挟撃作戦を画策、これに乗った憲政は、扇ヶ谷上杉朝定らと武蔵河越城の北条綱成を攻撃、義元は駿河東部長泉の長久保城を包囲、氏康は長久保、小田原、河越と兵力を分散しなければならず、苦境に立たされます。
雪斎の画策した作戦は成功、義元は手薄となった北条方の諸城を攻め落とし、東駿・富士の二郡を手中におさめました。
ですが、北条氏との争いは本意ではない雪斎は、信玄のすすめもあって義元・氏康・憲政の三者で講和を結びます。これを「三方輪」といいます。

天文21年11月、義元の娘を信玄の嫡男義信に嫁がせ、信玄の娘と氏康の嫡男氏政が婚約、翌22年3月には氏康の娘が義元の嫡男氏真に嫁ぎ、三家が縁戚関係で結ばれます。これが戦国史に名高い「三国同盟」で、武田氏、北条氏、今川氏の同盟締結を執り仕切ったのが雪斎でした。
雪斎にかかっては、のちに名将と称えられる信玄や氏康も手玉にとられた感があり、全てに雪斎の指示を仰ぐ義元や重臣たちは、次第に危機管理能力を失います。

武田氏の軍師の山本勘助が「今川家の事、雪斎なくてはならぬ家」と看破した話が「甲陽軍鑑」にあります。
雪斎は弘治元年(1555年)10月に病没しますが、その5年後に義元は桶狭間の戦いで戦死、この桶狭間の戦いときに雪斎が生きていたならば、織田信長という英傑が桶狭間の戦いで戦死していたもしれません。

※画像はイメージです。

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