九州の鎌倉幕府御家人であった竹崎季長(たけざきすえなが)、出自は菊池氏であり、菊池氏は太宰少弐や対馬守になった藤原政則(ふじわらまさのり)の子孫であるという説が有力です。
元寇の際に果敢に活躍した理由を考えてみました。
元寇
文永11年(西暦1274年)1月に元の皇帝フビライは日本侵攻命令を発します。
元・高麗連合軍は、10月19日に博多周辺への上陸を開始し、博多地域に集結していた鎌倉幕府配下の幕府軍は迎撃を開始。最初に上陸してきた元・高麗連合軍の部隊の主目的は、博多湾の地形や鎌倉幕府軍の配置を探ることにあったようで、小規模な部隊でした。
博多湾の海岸線近くは湿地が多かったため、双方の軍隊は、小高い場所を根拠地として陣地を構えます。
元・高麗連合軍は、小型船を使って少しずつ兵士や武器や馬を上陸させる必要があり、得意とする騎兵による大規模な突撃戦は事実上困難であったと考えられます。
元軍にとっては経験がなく、最も不慣れな海からの陸戦であったことが、鎌倉幕府軍に大きく利することになりました。
竹崎季長の活躍
竹崎季長は5騎の騎兵と数十人の歩兵を率い、敵陣に積極的に突進。敵船に乗り込んでは敵兵を討ち、勇敢に戦いました。
刀伊の入寇を退けた先祖をもつ彼は、愛国心に基づいた誇りを有しています。
同族争いに巻き込まれ、多くの所領を失った一族の長でもあったので絶好のチャンス。しかし、元寇を退けて功を立てても、鎌倉幕府の所領が増すわけではありません。
活躍の様子をよほどアピールしないといけないとも考え、敵陣へ突進する自身の絵画まで準備します。
そのかいあって、鎌倉幕府から褒美の所領を与えられています。勇猛なだけではなく、ビジネスライクなところもあったのでしょう。
なぜ元寇を退けられたのか?
2度にわたって元寇が退けられたのは、日本が公家の世から武家の世に変わり、多数の武士達を統括する鎌倉幕府が構築されていたこと。源平の大戦の経験を経て熟練度や武装が整っていたところに、フビライの日本に対する認識が甘く、投入した侵攻軍の規模が不充分であった。
鎌倉幕府の執権であった北条時宗は若年ながら肝の据わった優れた指揮官であり、敵の上陸予想区域に長い石塁を築くなど効果のある防衛線も築き、大陸においてモンゴル軍の強さが何に基づいていたかの元軍側自身の分析が不充分であったことも要因の一つだと考えられます
元寇が平安時代であったとすれば、元寇を退けるのは容易ではなく、私見では日本は運が良かったと思います。
featured image:日本語: 筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました, Public domain, via Wikimedia Commons
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