その日は昨夜からの雨が続き、激しい雨であった。
約束は午前十時である。
京都駅に到着し、香織からの呼び出し音を待つ。着いたという電話がきても良さそうだ。
駅のベンチで電話を待っていると、けたたましく電話が鳴った。もちろん、香織からである。慌ててスマホを取り、耳に当てた。
『もしもし、香織か。あれ、聞こえへん。もしもし、もしもし…』
外の雨脚が激しく聞こえにくい。スマホを耳にきつく押し当てる。
『ツー、ツー、ツンツンツン……』
『もしもし、もしもし。何やこれ、聞こえへんなあ』
雨の音で聞こえないのではなく、スマホから声が聞こえてこないのである。保留音ではない電子音がする。その音が途切れがちなのである。向こう側は聞こえているかもしれない。何の返答もなかった。スマホの調子が悪いのかを疑う。仕方なく一度切った。
すぐにかかってきた。スマホに飛びつく。
『あっ、もしもし、もしもし」
しかし、電子音だけが響いている。
『ツー、ツー、ツンツンツン…』
『あかんわ』
その後、こっちから何度もかけ直したが、話し中らしく、香織と連絡が取れない。ラインをしたが、既読にはならず、返事はなかった。
それっきり、香織からの電話はかかってこなかった。
帰宅後、夜になってようやく、雨もおさまった。すると、スマホが鳴った。香織からの電話である。
やっと香織の声を聞くことができた。安心感より、モヤモヤした気持ちをぶちまけたい衝動の方が勝ったが、一息おいて、優しい言葉をかける。
「もしもし、香織か。今日はどないしたん。連絡取れんかったなあ」
「ああ、そうやねえ……」
どう応えていいのか分からない。香織が約束を破ったわけであるから、謝ってくるというストーリーを頭に描いていた。しかし、何の謝罪もなかった。
「香織、俺に電話くれたよなあ?」
「うん、電話した。でも、連絡がつかんかった……」
「そうか。やっぱり、香織やったんやな。俺もなあ、何回もかけたんやで。それでもかからへんし、ラインもしたんやで」
ラインが既読にならないことに、ちょっとふて腐れた。
「そやろねえ。でも、あんたからは、電話、かかってきてへんし、ラインもきてへんのんよ」
香織は、あっけらかんと応えた。
一瞬で嘘に違いないと思った。電話の着信履歴などを見れば、すぐに分かることである。
しかし、押し問答をしても、仕方ない。こうして香織が電話してきたという事実は、まだ好意をもっているということではないか。まだ付き合いも始まってないので、かけてきてくれたチャンスを生かそうと思った。
「まあ、もう夜やし。明日は出てこれるか?」
「明日ねえ。いいよ」
「明日やで。間違いないな」
「うん、私も大丈夫。すぐの方がいいと思うの。約束破ったと思われるの、嫌やからね。今日のこと、ちゃんと話したいの」
約束を破ったわけではないとおもっているのかと気になったが、とにかく、急に元気になった。
「そうか。そうやなあ。そしたら、今日と同じ、京都駅中央口の改札で、明日、十時待ち合わせでどうや? 変更があったら、必ず電話してや?」
「わかった。そしたら、明日ね。バイバイ」
香織は、約束を破ったわけではないという。やっぱり何らかのトラブルがあったのである。電波状態が悪かったのか、電話の混線だったのか。とにかく、安心した。香織から電話がかかってこなかったら、寝付けない日々を迎えていただろう。そう考えると晴れやかな気分になった。
翌朝は晴れ渡っていた。温度がかなり上がり、蒸し暑い。
京都駅には十分前に着いた。香織はすでに来ていた。
京都駅ビルにあるレストランでランチを食べ、その後、シネマコンプレックス(複合施設)で映画を見た。ホラー映画であった。
映画の後は、喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲みながら、映画の批評会となった。そして、お互いの大学生生活の話しになり、話しは弾んだ。香織との仲もかなり進んだと思われた。あとは付き合ってほしいと言う機会をうかがっていた。
突然、今まで笑っていた香織が真顔になり、昨日の電話のことを切り出した。
「昨日のことでね、ちょっと聞きたいことがあるの」
「どうしたんや、急に」
真剣にならざるを得なかった。面食らった感じである。
「あのね、哲也。みどりっていう子、誰なの? どういう関係なの?」
香織は、じっと見つめている。その意図がわからなかった。
「おいおい、何の話しかと思ったら、いきなり何や? どうしたんや? みどり? 知らんよ」
ニコリと微笑んだ後、香織は、溜息を一つついた。
「あのね、どう考えても、不思議な話しなんよねえ。私もよくわからんないんやけどねえ。昨日、会うことになっていたでしょう。私、実はね、京都駅まで来たんや。約束通りね」
「えっ、そんな……」
「でも、会えなかったんよ」
驚いたと同時に安心した。香織は約束を破らなかったのである。
「そうやったんか。香織は、やっぱり電話かけてたんやなあ。かかってきたんやけど、電話とったら、こっちは聞こえへんねん。電波音だけが聞こえるだけやし。電波状態が悪かったんか、混線してたんかやなあ」
香織は、頷きながら、微笑んだ。
「それは、ちょっと違うんよ。確かにかけたんよ。かけたんやけど、あんたにはかからんかったんよ。あんたには。でも、哲也にはかかったんよ」
訳のわからないことを喋っている香織を笑った。
「何言うてるんや。話しがわからんで。それっどういうことや? わかるように説明してや」
「うん、でもねえ……。理解するのが、私にも難しんよ」
早く説明してほしい衝動にかられる。「みどり」という名前が頭をよぎる。
香織は、ニコリと微笑んだ。
「だから、この話しは難しいんだって。言い訳でも、作り話しでもないんよ。よく聞いてね。京都駅に着いて、すぐあんたに電話した。間違いなくね。すると……」
「すると何?」
「うん、電話するとねえ、哲也が携帯に出たんで、もう着いたよって言ったの。そやけどね、知らん振りをしたんよ。しかも、おまえ、誰やって言ったんよ。だから、香織だって言ったけどね。おまえ、誰か知らんって言うのよ。そのまま、電話を切られた」
昨日、電話が通じなかった。これは事実である。
「そんなアホな。電話はかかってきたけど、ツー、ツー、ツンツンツンって、電子音しか聞こえんかったで。香織とは会話してないって」
にこやかに香織はウンウンと頷いた。
「そうね。でもね、あとから電話がかかってきたの。見たら、知らない電話番号だった。おそるおそる出てみると、その人、みどりって名乗ったの。ホントよ。知らない人なんで、間違い電話じゃないかって。すると私の携帯番号を言ったわ。その人は、哲也のスマホの着信履歴の番号を見てかけてきたっていうの。そこで、私は今日十時に哲也と会うことになってるって言ったのよ。すると、みどりっていう人は、急に怒り出したのよ。哲也と付き合ってるのかって言うの。みどりさんは哲也と同棲してるって言ったわ。だから、私は、直接、哲也と話したいって言うと、哲也は出て行ったって言うのよ」
香織を見ながら、手が震えた。目の前のグラスの水を一気に飲み干した。
「その話し、ホンマか?」
「ホントだって。逆にこの話はホントなの? こっちが聞きたいのよ」
返事をできずに首を振るだけであった。
「これ、ホントの話しよね。みどりさんはねえ、ウソだと思うなら、こっちに来てって言うの。住んでいるアパートの住所も、私に言ったのよ」
香織は、じっと睨んでいる。
「おいおい、俺はなあ、知らん話しやって」
香織の視線に耐えられず、目を背けた。
「信じられないでしょうね。私も同じよ。でも、昨日あった出来事よ。嫉妬で言っているわけじゃないの」
喉がカラカラに渇いていた。コップの水はなくなり、ツバを飲み込んだ。
「あのなあ、昨日の約束を破ったんは、香織の方やで。そんな言い訳をするか? そんな作り話で誤魔化そうとしているんか?」
怒って吐き捨てるように言った。
しかし、香織はニコリと笑った。余裕を持っているようだ。
「落ち着いて聞いてね。あのね。嘘は言ってないよ。みどりさんが、住所教えてくれたの。それでね、まさかと思いながら、私は行ってみたの」
足が震えて、香織を見ることができなかった。
「あのなあ、俺は、そのみどりっていう子をまったく知らんけど、香織は、その子と友だちなんか?」
香織は、首を横に振った。
「知っているわけないやん。昨日初めて話したんやしね。でも、住んでいるアパートに来てくれって言ったのよ。それで、行ってみただけよ。ねえ、何か言いたいことある?」
香織は、自信ありげに平然と言った。
首を捻るしかなかった。不安になってきた。
「言いたいことはないけど。身に覚えがないしなあ……。それで、ア、アパートには行ったんか?」
「ええ。行ったよ」
ツバを飲み込み、前のめりになって、香織の返答を待った。
「それがねえ、空き家だったの。誰も住んでいないようだった」
胸を撫で下ろした。
「そうか……。それは、だまされたっていうことやなあ」
微笑みながら香織は、首を振った。
「いいえ。そんなことはないよ。知っているでしょ。みどりさん、死んでいたのよ」
動揺を隠せなかった。しかし、あきらめなかった。
「へえ、死んでいたんか。ということは、みどりっていう名前をかたって、誰かが、香織に電話をかけてきたっていうことやなあ」
笑みを浮かべて答えた。逃げ切れたと思った。
「それが違うんよね。みどりさん、殺されたんよ。アパートはね、みどりっていう子の名義なんやけど、そこに大学生風の男の人が出入りしてたって。同棲してたって。名前がね……」
ドキッとして、香織の言葉をさえぎった。
「お、おい、ちょっと待てよ。お、俺とどう関係があるんや!」
興奮して、椅子から立ち上がった。
「座ってよ。だから、もういいでしょ。哲也は、みどりさんと、一年前に一緒に住んでいた。それで……」
すると、どこからかあらわれた二人の男が、席の両側に立っていた。一人が私の肩を叩き、警察手帳を見せた。もう一人が厳格な口調で話した。
「水島哲也だな。逮捕状が出ている。佐久間みどり殺人容疑。署まで同行してくれ」
観念した。ゆっくりと立ち上がり、パトカーに乗り込んだ。
取調室にて。
「一年前のことです。僕は大学生で、みどりは働いていました。みどりと知り合い、付き合いが始まって。そのうちに、みどりのアパートに転がり込んで、同棲が始まったんです」
「つまり、ヒモっていうわけか」
「はあ、まあ、そんなところです。で、そのころ、別れ話が出ていまして。その日は雨が降っていました。突然、僕の携帯が鳴ったんです。電話に出てみると、知らない女の人からでした。しかも、会うことになってるとかいうので、怒って切りました。それがきっかけで、電話切った後、喧嘩になって、それでカッとなって、首を絞めてしまって……」
「その電話が香織さんだったということか?」
「いやあ、それはないでしょう。一年前のことですから。まだ、出会ってもいない香織が電話してくることはないでしょう」
前に座る刑事は、溜息を吐いた。
「そうやなあ…。みどりさんを殺し、死体をアパートの押し入れに入れて、逃げたっていうわけか。一年間も捕まらんかったもんやなあ」
うなだれて、軽く頷いた。
「はあ。しかし、その電話がかかったんは、一年前ですし、おかしな話しです。香織は一年前の過去の僕と話したっていうんでしょうかねえ。それに、香織が昨日、みどりと話しをしたっていうのも、不思議な話しですねえ」
「ああ、それは間違いない。香織さんの携帯に着信履歴が残っている。みどりさんの携帯番号やった」
目を見開いた。
「えっ、し、しかし、昨日、香織が、死んだみどりと話したなんて。それにみどりの携帯電話は、殺したあと、証拠隠滅のために、粉々に壊したんですよ…」
「ということは、過去からの電話ですか?」
※画像はイメージです。
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