皆さんはアメリカ合衆国大統領と聞いて、真っ先に誰を思い浮かべますか?
奴隷解放の父リンカーンやパレード中に暗殺されたジョン・F・ケネディは有名ですが、アメリカ独立宣言を起草し、合衆国繁栄の礎を築いたトーマス・ジェファーソンも、輝かしい偉業でもって尊敬を集めています。そんなジェファーソンが14歳の黒人少女を愛人として囲い、何人も隠し子をもうけていた事実は意外と知られていません。
今回はトーマス・ジェファーソンとその愛人サリー・ヘミングスの関係に着目し、二人の禁断愛の行方を追ってみたいと思います。
サリー・ヘミングスはジェファーソンの妻の腹違いの妹
トーマス・ジェファーソンは1743年4月2日、バージニアの名家に10人兄弟の3番目として生まれました。母親は富裕な農園主の娘、父親は由緒正しいウェールズ人の末裔の大佐。父の死に伴い広大な農園と数十人の奴隷を受け継いだ彼は、1769年にバージニア植民地議会議員に選出されると、「王は人民の召使であって主人ではない」と宣言し、情熱的な愛国主義者として支持を集めました。若い頃は弁護士として辣腕を振るい、特に黒人弁護に力を入れていたとと言います。
1801年、第3代アメリカ合衆国大統領に就任。アメリカ独立宣言の起草に携わり、アメリカ合衆国を今日の繁栄に導いた偉大な祖として、近代史に名を刻みました。
トントン拍子に出世街道を歩んだジェファーソンですが、家庭の方は順風満帆とはいきませんでした。兄弟2人は早死に、最愛の長姉も25歳の若さでこの世を去っています。大恋愛の末に結ばれたマーサとは早くに死に別れ、長女がファーストレディを務めていました。
マーサは生後6日目で母を亡くしています。その後父のジョン・ウェイルズは3度の再婚を経て、奴隷のベティ・ヘミングスを妾にします。ベティの父はイギリス人船長なので、正確には黒人と白人のハーフになります。
サリー・ヘミングスはマーサの年の離れた異母妹で、奴隷商人を兼ねていたウェイルズが、ベティに産ませた子供の1人。舅の死後はジェファーソンが奴隷数十人を相続し、3歳のサリーの面倒を見ていたそうです。ウェイルズと奴隷の間に出来た子は12人おり、ジェファーソンが全員貰い受けています。
ジェファーソンに愛されたサリー・ヘミングスの素顔
サリー・ヘミングスは純粋な黒人ではありません。厳密には黒人の血を4分の1、白人の血を4分の3引くクアドルーンにあたります。クアドルーンはアメリカ合衆国南部やオーストリアに多く存在し、祖父母の内3人が白人、1人が黒人かアボリジニの混血を指します。 ラテンアメリカでは「モリスコ」とも呼ばれていました。それ故見た目は白人に近く、背中に流れるストレートの黒髪がことさら印象的でした。現代の画家、バーバラ・キワクが描いた肖像画を見ればイメージが掴みやすいかもしれません。
1782年、末娘ルーシーの出産で衰弱しきったマーサは33歳の若さで息を引き取ります。妻の死に目に立ち会ったジェファーソンは「金輪際再婚しない」と慟哭し、マーサの死後3週間引きこもっていたかと思いきや、呆然自失の態で馬に乗り、ひもすがら徘徊する奇行を繰り返しました。政界復帰を果たすまでに掛かった期間は丸2か月……伴侶を失った哀しみの深さが偲ばれます。
妻との約束を守って生涯独身を通す代わりに、妻の異母妹を愛人として見初めたジェファーソン。サリーの写真は残っていませんが、片親が同じならば、マーサの面影を宿していてもおかしくありません。
マーサの死から2年後、フランス駐在大使に任命されたジェファーソンは長女マーサと料理人奴隷ジェイムズを伴い、大西洋を隔てたフランスに渡りました。ほどなく三女ルーシーの訃報が届き、1人残された次女メアリーの身を案じたジェファーソンは、娘を呼び寄せる決断に先立ってサリーに子守を頼みます。本当はもう少し年上のイザベルを呼ぶ予定でしたが、身重の彼女の代理として、サリーにお鉢が回ってきたのでした。
メアリーの子守を代行した14歳のサリーは、44歳のジェファーソンとたちまち深い仲になります。片やローティーンの少女、片や2人の娘を育てる男やもめ。親子ほど年の離れた2人ですが、現代とは価値観が異なる為、年の差は障害足り得ませんでした。余談ですがジェイムズはサリーの兄で、亡きマーサとは異母きょうだいの間柄です。精力絶倫なウェイルズはベティに12人の子供を産ませていました。
パリの暮らしは実に快適でした。自由の国フランスは奴隷制を禁じています。故にサリーたちはジェファーソン家の使用人として遇され、月2ドルの賃金が支払われます。上等な衣服と食事を与えられ、読み書きやマナーを習うこともできました。ジェイムズとサリーが望むなら、パリに残留する選択肢もあったのです。
これに異を唱えたのがジェファーソン。2人を粘り強く説得し、「私と一緒に帰ってほしい」と懇願。その条件としてサリーとジェイムズの待遇を改善、ならびにサリーのお腹の子が21歳を迎えたら自由にする約束を取り交わします。詰まるところ、16歳の少女をちゃっかり孕ませていたのです。
帰国後のサリーはモンティチェロの屋敷で働く傍ら、乳児期に夭折した2人を含め、計7人の子供を出産しました。名前は上からトマス、ハリエット、ベバリー、テニア、ハリエット(2人目)、マディソン、エストン。ハリエットの重複がややこしいものの、ジェファーソンの長女に母親と同じ名前が付けられたのを見ると、欧米ではよくあることだったみたいです。
記録上父親は不明となっていますが、ジェファーソンの可能性が高いだろうと、後世の歴史家は指摘しています。
当時のアメリカでは奴隷の出産に際し、父親の名前を記録していました。自筆の手紙の写しを全て保存していたほど几帳面なジェファーソンが、よりにもよって父親の名前だけ空欄で出した理由に、邪推が働いてしまいませんか?
長男の名前はトマス・ジェファーソン・ヘミングス。ミドルネームにジェファーソンが入っている以上、言い逃れできませんよね。
大統領と奴隷から生まれた混血児の運命
サリーはジェファーソンが起居する本邸と屋根付き通路で行き来可能な別棟に住んでいました。二人の間柄は公然の秘密として扱われ、ジェファーソンの大統領就任翌年には、「モンティチェロにいるぞ、ジェファーソンの隠し子がいるぞ」と囃し立てる戯れ歌が流行します。タイトルは『色黒サリー』、ないし『のっぽのトム(トマス)』。
マスコミと政敵が組んで仕掛けたネガティブキャンペーンの影響を恐れたジェファーソンは、世間体を憚る出自の息子トマスをオハイオの農園に送ります。これ以降トマスは経営主ジョン・ウッドソンのファミリーネームを名乗り、トマス・ウッドソンとして生きていくことに。成人後は同じ農園の女奴隷と結ばれ、子宝にも恵まれました。のちに労働の正当な対価として、家族全員分の自由権を買い取っています。
兄トマスとは対照的に白人寄りの見た目をしていたベバリー&ハリエットは、ジェファーソンから秘密裡に資金を調達し、姉妹揃って逃亡に踏み切りました。それぞれ白人と結婚し幸せな家庭を築いたと伝わっていますが、途中で音信不通になっており、詳細は定かではありません。表向きは干渉せず、逃亡を黙認したのは親心でしょうか?
1807年、ジェファーソンは奴隷の輸入禁止法を採択します。この時点で所有奴隷を解放できたにも関わらず、彼が暇を出した奴隷はジェイムズを含めた5人のみ。これは1806年のバージニア州法において、「解放奴隷は1年以内に州から立ち去るべし」と決められたせい。サリーを解放することは彼女との別れを意味したのです。
1826年にジェファーソンを看取ったサリーはその後9年生き続け、1935年に60代前半で死去しました。生前のジェファーソンが身に付けていたロケットペンダントには、マーサの形見の青いリボンが入っていたそうです。妻が本命だったと考えると切ないですね。
1998年にはサリーの息子エストンの子孫のDNA鑑定が行われ、ジェファーソンの男系子孫と血縁関係があることが判明。「サリーを孕ませたのは屋敷に出入りしていたジェファーソンの弟だ」と主張する者もいたものの根拠が弱く、建国の父のスキャンダルが取り沙汰されます。
アメリカのテレビ番組『オプラウィンフリーショウ』にはヘミングスの末裔がゲスト出演し、マディソンの子孫シャノン・ラニアは、『大統領ジェファソンの子どもたち』を出版しました。そして現在、モンティチェロで毎年開催される親睦会にはヘミングスの子孫も招かれ、ジェファーソン直系の人々と語らっているそうです。
featured image:Rembrandt Peale, Public domain, via Wikimedia Commons
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