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辻斬り余罪あり~水戸黄門のモデル「徳川光圀」の破天荒な生涯

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皆さんは水戸黄門のモデルとなった人物をご存じですか?水戸黄門のモデルは江戸時代に実在した偉人、水戸光圀公こと徳川光圀。
第二代水戸藩主として善政を敷き、様々な武勇伝を残した彼は、未開の蝦夷地を体験するなど好奇心旺盛な性格で知られていました。

今回は水戸黄門のモデル、徳川光圀の波乱万丈な生涯をご紹介していきます。

目次

父親に堕胎を望まれる

徳川光圀は寛永5年(1628年)、現在の茨城県にあたる水戸徳川家に当主・頼房の三男として生を享けました。母は谷重則の娘・久子です。
久子は奥付きの侍女・養心院の娘。母のお供として出入りするうちに頼房に見初められ、光圀の兄・頼重を懐妊しますが、養心院は「なんてはしたない」と嫁入り前の娘の醜聞を嘆き、芋蔓式に側室・お勝の方の怒りも買ってしまいます。
両者の板挟みに陥った頼房は慌てて堕胎を命じるも時すでに遅く、乳母の取り計らいによって江戸別邸に移された久子は頼重を出産。その後も懲りずに関係を続けた結果、久子が光圀を孕むと再び堕胎を命じています。

後年の光圀は父の無体な命令を「母の家の格が低かったから」と解釈しました。当時の久子は正式な側室ですらなく、藩主のお手付きになるのは家の恥と考えられたのです。一方で頼重と光圀の間には5人の兄弟がおり、何故久子の子だけ流産を望まれたのか、真相はわかっていません。頼重・光圀兄弟にとって幸いだったのは、頼房の老臣・三木之次とその妻が久子に同情し、密かに出産を手伝ってくれたことです。

父の願いに背いて産まれた光圀は、しばらくの間三木夫妻の子と偽り育てられました。頼房の子として認知され、水戸城に上がるのを許されたのは5歳の時。翌年には江戸小石川の藩邸に移り住み、世子教育を施されます。
光圀の波乱万丈な生涯を語る上で、幼少期の環境の変化が人格形成に与えた影響は計り知れません。

鄙びた田舎から小石川の壮麗な御殿に引っ越した光圀は、大勢の女中に傅かれて過ごすうち、些細なことで癇癪を起こしては刀を抜き、所構わず暴れ回るようになりました。馬場に出入りして草履取りと馴れ合い、色自慢で盛り上がるのはまだ序の口。遊郭から朝帰りした際は、口うるさい家臣の叱責を恐れ、鰹売りに変装までしたそうです。うぶな弟たちを吉原に連れ込んで手練手管をひけらかすなど、破廉恥な行状はとりわけ目に余りました。堪忍袋の緒が切れた頼房が熱海への湯治に付き合わせ、懇々と説教すれどもまるで埒があかず、却って軋轢が生じる始末。
大前提として、非行の原因が頼房にあるのを忘れてはいけません。

光圀の胆力を鍛え上げるべく、頼房は数々の過酷な試練を課しました。7歳の時には無明の夜道を越えて桜ノ馬場まで罪人の首を取りに行かせ、12歳の時には汚物が溢れる浅草川を泳いで渡らせました。一歩間違えば死んでいた可能性は否めません。浅草川に至っては洪水直後で氾濫しており、無事に泳ぎ切れたのが奇跡でした。罪人の首を引きずって帰ってきた息子の姿に、頼房は何を思ったのでしょうか。

父への反抗心がなせるわざか、十代半ばにして立派な「かぶき者」に育った光圀は、木綿の小袖にビロードの襟を付け、帯を崩したナリで江戸の町を練り歩き、数え切れない女性たちと交わりました。当時の光圀は大変な美少年だった為、女が放っておかなかったのです。

友人に唆され辻斬りを試す

そんな光圀が中国の歴史書『伯夷伝』と出会い、学問の面白さに目覚めたのは18歳の時。以降は生活の立て直しを図りますが、若さ故の過ちでは済まされない事件も起こしています。
光圀の主治医・井上玄桐は自著『玄桐筆記』にて、光圀の青年時代の逸話を語っています。
ある日の帰り道、悪友と連れ立って歩いていた光圀は、「浅草堂の縁の下にいる非人を斬ってみないか」と焚き付けられました。「とんでもない」と一度は断ったものの、「さては怖気付いたな」と嗤われたのに腹を立て、「そこまでいうならやってやろうじゃないか」と豪語します。

売り言葉に買い言葉でお堂の縁の下を覗いてみれば、案の定数人の非人が隠れていました。
正直気乗りはしませんが、友人に啖呵を切った手前、やっぱりやめるとも言い出せません。
そこで光圀は死に物狂いに命乞いする一人の首ねっこを引っ掴むや、「前世の因果と思って諦めろ」と言い放って斬殺。しかしさすがに気が咎めたのか、直後に友人と縁を切り、悔い改めたと結んでいます。

若き光圀が非行に走った背景には、父・頼房への反発に加え、何故か跡継ぎに指名されなかった同腹の兄、頼重に対する劣等感がありました。弟と打って変わって温和な頼重は文武両道な人物として知られ、時の将軍・徳川家光とは共に風呂に入るほど仲睦まじく、大勢の家臣に慕われていました。
常に兄と比べられる現状に嫌気が差していた光圀は、頼重の長男・綱方を自身の跡継ぎに指名することで心の重荷を下ろし、父の他界を待って藩主の座に就いたのでした。

水戸藩の改革と蝦夷地冒険

壮年期の光圀は財政難に瀕した水戸藩の改革を断行。家臣や領民の模範となるべく、自ら率先して質素倹約に努めます。それ以外にも百姓の雑税を免除し糧を支給するなど、藩の財政健全化を目標に掲げ、試行錯誤を重ねていきました。
光圀27歳の時に縁談が纏まり、17歳の泰姫が正室として嫁いできました。夫婦仲は極めて円満だったらしく、彼女の死後は妻を娶っていません。
主な偉業として称えられるのは藩の慣習とされていた殉死を禁じたこと、ならびに『大日本史』の編纂。光圀は父の葬儀を終えた足で家臣宅を回り、頼房の死去に伴い、切腹の準備をしていた面々を説得したそうです。町奉行を動かして前兆10キロに及ぶ水道を敷き、寺社改革の一環として村単位の開基帳を作成したのも、領民の生活の質向上に繋がりました。

巨船「快風丸」を建造し、3度に亘る蝦夷地探検経て、大量の土産を持ち帰ったのもお手柄。
収穫物には塩鮭1万匹の他に熊・ラッコ・トドの毛皮などが含まれ、珍しい物が好きな光圀を大いに喜ばせたそうです。

元禄3年(1690年)には綱方に家督を譲って隠居し、古墳発掘を新しい趣味としました。
テレビドラマ『水戸黄門』における世直し旅は『大日本史』編纂に際し、儒学者を全国に派遣した史実にちなんでいるものの、光圀自身が行脚した記録はありません。
晩年はすっかり丸くなった光圀ですが、元禄7年(1694年)3月に殺人事件を起こしているのはあまり知られていません。
時の将軍・徳川綱吉の要請で江戸に上った光圀は、小石川藩邸に幕府の老中や諸大名を招き、『平家物語』に材を取った能舞『千手』を披露しました。その後楽屋に重臣・藤井紋太夫を呼び付け、いきなり刺殺したのです。
目撃者の刺井上玄桐は、光圀が紋太夫を殺した動機に言及し、「主君の隠居以降威張り散らすようになり、問題行動が目立った為に仕置きされた」と書いています。

光圀の立場なら他人に暗殺を命じた方が穏便に済むにも関わらず、敢えて自分の手を汚すあたり、家臣の不始末の責任をとる覚悟が見て取れます。別の説では幕府側用人・柳沢吉保と共謀し光圀失脚を企てたのが原因とされ、紋太夫の側に非があるというのが通説と化しています。
以降の光圀は仏教に帰依し、亡き妻と母の菩提を手厚く弔い、泰姫の命日に出家しました。
してみると更生のきっかけは『伯夷伝』かもしれませんが、最愛の女性と出会ったことで良心が目覚めたとも考えられます。

※画像はイメージです。

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