東條英樹首相には、二つの暗殺計画があったのでした。
戦況悪化と東條内閣批判
1944年2月、米軍の反転攻勢はマリアナ海域にも及んだ。
この海域は閣議及び御前会議で決定された絶体国防圏、つまり皇国防衛と戦争継続のために絶対死守すべき防衛線の一部であり、サイパン島からは日本本土各地がB29の爆撃可能範囲に入るため、マリアナ諸島陥落は戦局の決定的悪化を意味していた。
米軍反攻に対する有効な防衛策を講じ得ない東條英樹内閣の戦争指導に、以前から各方面からの批判が高まっていた。
特に冷静な戦況分析と正しい方途判断を持つ人々は、和平講和を含めた政策の必要性を痛感し、
戦争一本やりの東條内閣打倒を目指した。
しかし総理大臣、陸軍大臣、参謀総長(大本営幕僚長)を兼任し、国務と統帥の二大権力を掌握している東條は、関東軍憲兵司令官時代に自身の副官であった。
東京憲兵隊長を使った反対勢力への弾圧や、陸軍大臣の人事権による反対派軍人の前線転出などで、反東條活動を封じ込めていた。
二つの東条英樹暗殺計画
二つの東条英樹暗殺計画について、それぞれを解説していこう。
高木惣吉海軍少将
日独伊三国同盟と対米開戦に断固反対し、後には終戦の道を付けた鈴木貫太郎内閣の海軍大臣となった米内政光大将の下、情報収集や各方面との調整などで活躍していた高木惣吉少将は、戦況に関する綿密な調査分析から敗戦必至とし、本土決戦では皇国が滅亡すると結論付けた。
この結果を共有した海軍長老・岡田啓介大将や米内大将らは、海軍皇族軍人の伏見宮、高松宮、また天皇側近の木戸幸一内大臣などに、嶋田繁太郎海軍大臣辞任による東条内閣総辞職を画策した。
しかし東條の猛反撃でこの動きは抑え込まれた。
焦燥感に駆られ、東條暗殺も止む無しと思い始めていた高木は、6月23日、たまさか部下・神重徳海軍大佐の東條暗殺計画を知り、実行を決意した。
方法
閣議出席途上の東條首相乗車の自動車を、海軍省手前の四つ角で自動車2台による衝突及び銃撃で殺害。
決行日時と人員
閣議出席の火または金曜日、午前10時。
決行日は決行2日前に高木が最終決定。
決行人員は7名。
犯行後の脱出
逃走用車両1台で厚木海軍航空隊基地に直行。
一式陸上攻撃機で台湾へ脱出。
時にサイパンは陥落寸前であった。
津野田知重陸軍少佐
支那派遣軍から大本営参謀部三課に転任した津野田知重少佐は、現地軍では知り得ない、極度に悪化した戦局全般を目の当たりにした。
東條内閣への不信感を強めた津野田は、親友の皇宮警察柔道師範・牛島辰熊と共に、東條首相更迭と和平工作に関する献策書「大東亜戦争現局に対する観察」を作成し、その中で更迭不可能時の非常手段として東條暗殺を記した。
二人は共通の師である退役陸軍中将・石原莞爾から、東條暗殺を含めた賛同を得た後、小畑敏四郎陸軍中将や皇族の三笠宮陸軍少佐に献策書を提示し、彼らを通じて東條退陣の天皇御聖断を仰ぎながら、同時に暗殺計画も準備した。
方法
閣議出席途上、祝田橋付近のカーブしている路上で、ガラス製青酸液手榴弾(開発中)を東條乗車の自動車内に投擲。
決行日
7月15日とするも、津野田少佐出張のため7月22日(7月25日説あり)に延期。
7月7日、サイパン島守備隊が玉砕。
東條内閣総辞職
陸相として「サイパン島防衛は安泰」と豪語していた東条は、結局、米軍上陸のサイパン島救援も行わず、これ放棄した。サイパン島は陥落した。
絶対国防圏の防衛に無策だった東條内閣に対し、それまで以上の批判が噴出。
東條降しの動きは代議士、予備役大将、皇族軍人らにも広がり、重臣会議でも東條不信任が決定された。
重臣会議は首相、枢密院議長の経験者と元老で構成され、首相候補と国家の重大事に関する意見を、内大臣を通して天皇に上奏する。
東條首相を推していた木戸内大臣は、サイパン陥落などの戦況悪化や各方面からの東條内閣批判に鑑み、最終的に重臣会議の決定を受けて天皇に東條更迭を上奏した。
7月18日、東条英樹内閣総辞職。
日本は終戦に向かって大きく舵を切り、二つの暗殺計画は実行されずに、東條英樹は二度命拾いした。
featured image:東條英機, Public domain, via Wikimedia Commons
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