厚い氷に閉ざされた美しい景観から「シベリアの真珠」と讃えられる世界遺産バイカル湖。
地球にもっとも古く誕生した古代湖であり、世界一の水深・透明度を誇ることで知られる。
この三日月型の巨大湖は、かつては海だった。海から孤立して淡水化した固有種が多く生息するのはこのためで、未発見の生物も存在するのではないかと考えられている。
深い水底には、魚竜のような姿をした湖の主が棲むという伝承もある。旧ソ連時代、研究者たちが湖底を泳ぐ数十メートルの物体を音波探知機で検知したが、その正体は解明できなかった。
いくつもの世界一をもち、「ロシアのガラパゴス」「生物進化の博物館」と呼ばれるバイカル湖だが、その美しさの陰に隠れた悲話はあまり知られていない。冷たい湖底には今も大量の屍が眠っているのだ。そして、おそらく黄金も。
東へ、東へ
第一次大戦下、帝政ロシアに革命が勃発し、ロマノフ王朝が崩壊した。つぎにやってきたのは、政権を掌握した革命軍(ソヴィエト政府の赤軍)と、帝政ロシア復活を望む反革命軍(白軍)の内戦である。
白軍はアレクサンドル・コルチャーク提督の指揮のもと激戦をくり返すが、戦局はドイツを味方につけた赤軍に有利に進む。1919年11月、白軍の拠点であるオムスクがついに陥落する。
オムスクを占領された白軍は態勢の立て直しをはかるため、新たな地へ逃れることになった。再起の地は赤軍の追撃が届かないシベリア奥地。亡命者は50万の白軍に帝政時代の貴族、僧侶、女や子どもら75万が加わった総勢125万人。
彼らは帝政ロシア再建の軍資金として、ロマノフ金貨約500トンとおびただしい財宝や金塊を携えて死の逃避行を開始した。8000キロもある広大なシベリア大移動。俗にいう大シベリア冬季行軍である。
しかし、軍民125万人の大キャラバン隊を待ち受けていたのは雪と氷の地獄だった。
亡命者の5分の4が脱落
季節は真冬、それでも死の逃避行を休むことはできない。
連日氷点下20度を下回り、あまりの寒さに目を開けられず、吐いた息はすぐさま凍って、息が苦しい。
脱落した人間がその場に置き去りにされ、たった一晩で20万人の犠牲者がでる事も。3か月がたったころには、125万人いた亡命者はわずか5分の1に減っていた。
生き残った25万の人々は、それでもなんとか2000キロを踏破してイルクーツクまでたどり着いた。しかし苦難はつづく。眼前には凍結した大バイカルが横たわっていたのだ。
氷の厚さは3メートルほどだろうか。横断するには十分の厚さだが、対岸までは80キロあるはずだ。はたしてこの湖を渡れるか。いや、選択肢などない。渡りきらなければ赤軍の追手から逃れることはできないのだから。彼らは帝政ロシア再建のために意を決した。
神よ、ご加護を。今ここでわれらをお守りくだされば、もう何も望みません。
しかし、その祈りは神には届かなかった。
暗い湖底に眠る魂
一行は、足取り重く湖を渡りはじめると、不運にも自然は彼らに牙をむいたのである。
湖上はたちまち雪風が吹き荒れ、気温は零下70度。一瞬にして意識を失うほどの極限の寒さ。人々は歩きながら次々と凍結し、そのまま動かなくなった。
一説によると、彼らは全滅を免れ、約3万人が湖を渡りきったともいう。
やがて冬がすぎ、春がくると湖上にさらされていた大量の凍死体は、湖面の氷がとけるとともに水底に沈んでいった。
人類史上、これほど多くの凍死者をだした出来事は前例をみない。バイカル湖の暗い湖底には、無念のうちに死んでいった多くの魂が今も眠っているのだ。
悪魔のクレーターと謎の蜃気楼
バイカル湖は昔から不思議な現象が語り継がれてきたミステリアスな湖だ。
たとえば、水深がもっとも深いポイントで発生する悪魔のクレーター。このポイントは人や船が忽然と消える危険水域として知られ、地元住民は過去にどのくらいの行方不明者がでたかわからないと口をそろえる。
よく晴れた日、この水域では時おり湖面がグルグルと渦を巻きはじめ、巨大なクレーターのような形状になる。そして、その回転流が船を引きずりこんでしまうのだ。この現象については数々の目撃証言があり、記録やビデオにも残されているという。
また、湖では人の行列、古代の城、古い時代の船舶がたびたび目撃されてきた。それらは蜃気楼のように姿を現し、磁気障害をもたらして機器を狂わせる。そのために船は進行方向を見失ってしまうのだ。蜃気楼が発生しそうな霧がでたら要注意、というのが地元の漁師の合言葉だという。
深い湖底に潜むものは、いつの時代も人間の好奇の的だった。
バイカル湖の悲劇は都市伝説として扱われることもあるが、まぎれもない史実である。
多くの湖沼は堆積する土砂などによっていずれは姿を消す運命にあるが、バイカル湖は現在もプレート活動の影響で毎年幅2センチメートル、深さ6ミリメートルずつ成長している。まさに生きた湖であり、このままいけば将来はふたたび北極海と連結する。
そのとき、この悲劇を知る人間ははたして地球上に繫栄しているのだろうか。
featured image:Simon Bergerによる写真
※画像はイメージです。
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