以前より掲載いただいている拙作『戦中体験者からのちょっとした話 その5~帰還兵編~』の続編です。
戦争を生き延びた兵士達のその後を集めてみました。
阿倍野歩道橋のオッチャン
先日、偶然見つけた日記ブログにて、この様な一文がありました。
「私が子供だった1968年頃、高架下で物乞いをしている傷痍軍人を見たことがある」
その年代にもその様な人達を見かけることがあったとは、正直、思いもよらない話でした。
早速、周囲の人達に「この話をどう思う?」と聞いて回った処、予想以上の言葉が返ってきたのです。
「近所にいたよ。お前も会ってるぞ」
私の生家からも近い、JR西日本・天王寺駅と近鉄・あべの駅の間、現在は『あべのハルカス』や『Q’s MALL』を望む、駅横の歩道橋。
その場所で物乞いをしていた、隻腕の壮年男性がいたのです。
丁度、私が物心ついた1970年代初頭。言われてみれば、その姿はおぼろげながら思い出せます。
「本当かどうかまでは分からないけれど、とにかく傷痍軍人を名乗ってた」
その言葉がリアリティを持つ時代。歴史の傷跡は、戦後30年経てもなお続いていたのです。
こんな奴らに負けたとは その1
父が前線帰りの人達から聞いた話。
母国を遠く離れた地で奮闘し続けるも政府が降伏。部隊は現地で武装解除されることに。
そこで初めて目の当たりにした米兵たちは、皆にとてつもない衝撃を与えました。
彼らが整列している様子は、同じ前線の兵士に関わらず、とてもだらけた空気が漂っていたのです。
その様たるや、自分たち日本軍なら、その場で激しい叱責を受けるようなものでした。
それが米兵の間では罷り通っていたのです。
やがて士官が現れましたが、その姿もまた呆れ果てたものでした・・・
点呼を取り記録を付けるのですが、その最中にガムを噛み始める始末。
「なんで俺ら、こんなアホどもに負けてん……」
一同、筆舌に尽くしがたい悔しさを覚えることとなりました。
こんな奴らに負けたとは その2
戦地帰りでこそありませんが、陸軍にいた父から聞いた話。
戦後にはGHQの兵士達が街なかで幅を利かせる様になりましたが、父は彼らと遊びまわったことがあるそうです。
言葉が通じたかどうかは分かりません。
父自身は育ちが裕福でなく、徴兵されて初めて高等教育を受けるような生い立ちでした。
ただ、クリスチャンとなり教会を通じて医大生などとも交流ができたため、語学堪能な友人もいたのでしょう。
かつては自分達を殺しに来た敵国の兵士と付き合うのは、あまり抵抗感じなかった様ですが、また別の感情を抱くようになりました。
直に接してみた米兵達は、歩きながら物を食べたり、服装がだらしなかったり、日本とはかけ離れていたのです。
戦前から喧伝されていた偉大な国の兵士という姿は、そこにはありませんでした。
こんな奴らに負けたとは その3
同じく、父からの話。
アメリカが偉大な国であると、戦前から日本では伝えられていました。
少年だった父も、様々な期待に胸を膨らませていたのです。
戦争が終わると、それまで禁じられていた海外文学が多く持ち込まれ、父の目にも触れる様になりました。
その中で衝撃を受けたのは、『タバコ・ロード』でした。
主人公は品も教養も無い田舎の青年で、知識も無く自動車を乗り回し、事故を起こし、騒動をまき散らします。
「アメリカも日本と変わらんやないか」
以来、父はアメリカに幻想を抱かなくなりました。
戦後も70年を越えましたが、多くの話が語り継がれているものです。
今後もまた、新しい話が聞けるかも知れません。
それはまたの機会に……。
※画像はイメージです。
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