藁人形と言えば、丑の刻参りに必須の呪具です。
恐ろしい存在と思われがちですが思わぬルーツがあり、そんな藁人形と丑の刻参りの歴史を考察していきます。
『藁人形』の歴史
藁人形は定番の呪具というイメージがあり、『丑の刻参り』という呪いの儀式に深く関係があります。
丑の刻(午前1時~午前3時)に白装束と頭にロウソクを巻き付けた姿に人気のない場所、憎い相手の写真や髪の毛などを埋め込んだ藁人形に怨念を込めて7日間行う。
すると相手の藁人形に釘を打ち込んだ部位と同じ箇所に怪我や病がかかり、果てには命も。
なんていう恐ろしい儀式が『丑の刻参り』ですが、一体この儀式や藁人形はいつ歴史に登場したのでしょうか?
気になって調べてみると、その起源は平安時代にありました。
藁人形は平安時代には既に登場しており、もとは疫病対策のお祓いアイテムだったようです。
道に立てて病を祓う念を込めたり、害虫対策として藁人形を掲げて田畑を練り歩き、最後には川に流したり。
つまり藁人形は呪物というわけではなく、厄除けだったのです。
藁人形の神様として、秋田県湯沢市・岩崎八幡神社が祀る『鹿島様』は全長4mの巨大な藁人形で、剣を携え武神(いくさがみ)です。
岩崎八幡神社のホームページに「天喜5年(1057年)源義家鐙隻足奉納があった」と記され、歴史に登場したのがその辺りの時代で、恐らく鹿島様も、その頃に誕生したのではないかと私は推測しています。
天喜5年は平安時代中期に当たるので、当時流行していた藁人形の厄除け儀式を受け継いだのかもしれません。
鹿島様は疫病や悪霊、邪悪な者や悪人を近づけないようにする『守り神』としての役割があり、こういった面から、やはり藁人形は元々『人を守る』という側面の方が強かったのだと思います。
では、いつから藁人形が『丑の刻参り』の道具として使われるようになったのでしょうか。
そのルーツは貴船神社の『宇治の橋姫伝説』にあると私は考えています。
丑の刻参りと宇治の橋姫伝説
貴船神社は京都市にある、水の神を祀る神社です。
この貴船神社は縁結びのパワースポットとしても知られているのですが、宇治の橋姫という、恐ろしくも悲しい女性の神様の伝説が伝わっています。
宇治の橋姫は『平家物語・剣巻』に詳しく登場し、その中では鬼神として愛と憎悪に狂った姿が描かれていました。
平家物語に記されているのは、ある一人の女性に嫉妬して、貴船神社に7日間籠りながら「呪いたい女がいる、私を鬼に変えてください」と願い、憐れに思った貴船神社の神様は「姿を変えて21日間、宇治川に浸かりなさい」と伝えたのです。
その通りに夜ごと松明を口に咥え、白装束を纏い、髪を結んで角に見立て、姿を見た人が恐ろしさのあまり死んでしまうほどの鬼の姿に。
21日間、宇治川に浸かると鬼になり、憎んでいた女性やその家族、そして恋人の男性の命まで全て奪ってしまったそうです。
彼女の行った呪術や伝説が広く伝わって形を変え『丑の刻参り』が誕生したと言われていますが、他にも様々な呪術のルーツが合わさって現代に伝わる『丑の刻参り』の形になったのではないかと私は考えています。
ですが『決まった時間と日数、目的の場所に向かう。白装束を纏う、頭に炎を灯す』という手順や衣装が『丑の刻参り』と共通しているので、強い影響を与えたのは間違いないでしょう。
どうして藁人形が丑の刻参りに取り入れられたかというと、陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが少しずつ結びつき、江戸時代頃には現在と同じ『丑の刻参り』の原型に近付いた。という説もあり、私はそちらを信じています。
変貌した藁人形
藁人形といえば呪具というイメージが強いと思いますが、もともとは厄除けや守護など人々の暮らしを支えてくれる精神的支柱とも呼べる存在でした。
いつしか藁人形と呪いの儀式が結び付き、恐れられる存在に変貌してしまったのも、人の業や恨みの感情が呪術の手順と共に伝えられ成長していった、その仕業なのかもしれません。
※画像はイメージです。
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