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迷い込んだら出てこない極相林「八幡の藪知らず」とは

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日本には数多くの禁足地が存在します。鄙びた農地が広がる一角に不自然に取り残された新開の森、比叡山の魔所として知られる天梯権現祠など、それらは迂闊に足を踏み入れたら命取りとなる禁域として、迷信深い人々に畏怖されてきました。

とりわけ有名な八幡の藪知らずには、どんな謂れがあるのでしょうか?今回は水戸黄門のモデル・徳川光圀とも縁が深い極相林、八幡の藪知らずを解説していきます。

目次

八幡の藪知らずとは?

八幡の藪知らずとは千葉県市川市、市川市役所の斜め向かいに位置する鬱蒼とした藪。ここは国道14号線に面し、交通量や人通りがそこそこある都会の真ん中。近くには八幡の地名の由来となった、葛飾八幡宮が鎮座しています。
市が立てた看板には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記されており、「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」などの別名も存在。

面積は奥行き・幅ともに18メートル程度で、決して広いとは言えません。これは宅地開発による縮小化にあらず、江戸時代から既にこの広さだったと文献に記されていました。
藪の周囲は柵で囲まれ人の立ち入りを禁じています。街道に面して設けられた社殿の傍らには安政4年(1857年)に建立された伊勢屋宇兵衛の石碑が佇み、この敷地内のみ参拝が許可されていました。

昭和末頃までは細竹・漆・松・杉・柏・栗などが生い茂り、多様な植生相を見せていましたが、現在はその殆どが孟宗竹に飲まれ、猛々しい竹藪に成り果ています。
このように環境に適応できない樹木が淘汰され、生育に適した植物のみが高密度で栄えた状態を極相林と言います。

八幡の藪知らずは昔から神隠しの相次ぐ場所として知られており、一度足を踏み入れたら二度と出てこれないと人々は信じていました。江戸時代後期には斎藤月岑『江戸名所図会』などの紀行文に取り上げられ、全国に名を広めていきます。

八幡の藪知らずは日本武尊の陣屋だった

八幡の藪知らずの起源は諸説あり、中でも面白いのが『古事記』『日本書紀』に登場する英雄、日本武尊(やまとたける)の陣屋だったとする説。日本武尊は景行天皇12年に生まれた古代の皇族で、『古事記』では倭建命(やまとたけるのみこと)と表記されます。

熊襲征討・東国征討の武勲を立てた彼は、全国各地で神として祀られ、民の信仰を集めました。
八幡の藪知らずも日本武尊由来の場所とされており、それ故みだりに立ち入るのは禁じられている、と唱える者もいます。

八幡の藪知らずは平将門の墓所だった

次に挙げるのは平将門の墓所説。平将門は平安時代に実在した関東の豪族で、当時の朝廷とそれを率いる朱雀天皇に反旗を翻して挙兵。新皇を自称して東国の独立を掲げるも、即位後2か月足らずで藤原秀郷・平貞盛に討たれ、非業の死を遂げました。かの有名な平将門の乱です。
平将門は日本で初めて晒し首になった人物とも言われ、数々の怪奇な逸話が語り継がれています。

曰く京都の七条河原に晒された将門の首は、死後数か月経っても腐敗せず、ぎょろりと目を剥いて口を引き結び、恐ろしい形相で見物人を威圧し続けたそうです。
それを見た歌人の藤六左近は、「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠みます。

すると突如として大地が鳴動し稲妻が空を切り裂き、将門の生首が「躯を付けて一戦せん。胴はどこだ」と絶叫。その声は夜毎響き続け、ある時遂に空高く飛び上がり、東の方へ飛び去ってしまいました。この時将門の首が落ちたのが都内有数の心霊スポット、通称首塚こと東京都千代田区大手町の将門塚で、首塚に悪戯した者は祟られると噂が広まっています。

菅原道真、崇徳天皇と並ぶ日本三大怨霊に挙げられる平将門と関係が深い地なら、禁足地に定められるのはさもありなん。
一説によると平将門が討たれたのち、命からがら落ち延びた将門の忠臣6人が主君の首を死守し、この地で泥人形になったそうです。

八門遁甲の死門が開かれた場所

別の説を紹介するなら、八幡の藪知らずは将門征伐の為、八陣の法が敷かれた場所と主張する人も多いです。
曰く、平貞盛と藤原秀郷は中国の占術「式占」に通じていました。彼等は八卦八門八星を立て、それに冬至より立冬に至る各節を配し、戦の趨勢や敵将の動向を占ったのです。八門遁甲の祖は古代中国の黄帝とされ、太公望や張良が改良を加え、天才軍師・諸葛孔明がよく用いたことでも知られています。

貞盛と秀郷は八幡の藪知らずを八門遁甲の死門に定め、今後足を踏み入れた者には必ず害がある、と牽制します。ちなみに死門は北東にあたり、陰陽道の鬼門に該当します。

中央の窪地は放生会の跡地?

八幡の藪知らずの中心は周囲と比べ窪んでいます。ここは放生会(ほうじょうえ)の際に出来た、放生池の跡地といわれています。
放生会とは古代から八幡宮に受け継がれてきた行事で、万物の生命を慈しみ殺生を戒め、河川に魚を放すというもの。その起源は合戦が続いた時期、「人間多く殺生す よろしく放生会を修すべし」と御神託が下ったから。霊験あらたかな神社の境内に池があるのも、放生会の名残りと言えます。

神道の行事に使われた神聖な場所であるのに加え、有難い魚が泳いでるのですから、無闇な立ち入りを禁じるのは理にかなっていますよね。
しかし時代が下ると池が枯れ、中央に僅かな窪みを残すのみとなり、「入るべからず」の警告のみが独り歩きする形となった・・・というのが、識者の見解です。
八幡の藪知らずの窪地には毒ガスが沸いているとする説もありますが、こちらは極めて信憑性が低いです。

あの水戸黄門が怪異と遭遇した!?

様々な言い伝えに事欠かない八幡の藪知らず。水戸黄門こと徳川光圀も、この地で怪異に遭遇しているのをご存知でしたか?
江戸時代……八幡の藪知らずの近隣住民たちは、昼なお不気味に暗い藪に魑魅魍魎が棲んでいると信じ、近寄るのを避けていました。
そこにふらりと通りかかったのが旅の途中の水戸黄門。豪胆な彼は里の人々の話に興味を示し、噂の真偽を確かめるべく、たった一人で八幡の藪知らずに分け入ります。

水戸黄門が八幡の藪知らずに踏み込むや風が冷え、周囲の葉がざわざわ鳴り、禍々しい瘴気が立ち込めました。
時既に遅し。彼は異形の妖怪に取り巻かれ、血相変えて振り返った所、歩いてきた道が消えてしまっていたのです。
途方に暮れる水戸黄門の前に白髪の老爺に化けた神が現れ、禁足地に踏み込んだことを咎めます。しかし水戸黄門は位の高い人物だったので特別に許され、間一髪生還することができたのです。
この話は月岡鉄治郎の錦絵「不知藪八幡之実怪」の題材にされ全国に流布し、創作狂言「水戸黄門と藪しらず」が誕生します。

実は水戸黄門こと徳川光圀と平将門には因縁があります。水戸徳川家二代目藩主の光圀は、『大日本史』を編纂する学者として功績を遺した一方、「八幡改め」と呼ばれる宗教政策を断行した専制君主の顔を持ちました。八幡改めは八幡潰しとも呼ばれ、水戸藩内の八幡社の改廃を進める政策。早い話、水戸黄門様は八幡社を潰しまくっていたのでした。
のみならず平将門を逆臣と批判しており、八幡の藪知らずの不興を買ったと推測されます。自分を貶めた人間に墓を荒されたら、誰だって仕返ししたくなりますよね。

八幡の藪知らずと機織り娘

市川市には不思議な言い伝えが残っています。昔々、地元の人々は夜毎八幡の藪知らずから夜毎聞こえてくる、機を織る音を気味悪がっていました。機織りの音は夜明けには止んでしまい、誰が機を織っているかわかりません。

ある夜、付近の住民の家を見慣れぬ娘が訪ね、機織りに用いるおさを貸してほしいと頼みます。住民がおさを貸すと翌日の夜に返しに来たものの、そこにはべったり血が付いていました。
娘の正体は不明ですが、八幡の藪知らずには本当に怪異が潜んでいるのかもしれません。

※画像はイメージです。

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