「武士の商法」は、武士の商売下手を揶揄する言葉です。
しかし、山中幸盛の長男として生まれた山中幸元は武士を捨て、商人として成功したのでした。
幸元の心の内を考えてみます。
山中幸元
父である山中幸盛は、尼子十勇士のリーダーとして知られ、戦国時代に山陰を支配した尼子氏の家臣であり、毛利氏に滅ぼされた尼子家の再興のため人生の大半を捧げ、最後には毛利氏に斬られて33歳で生涯を終えます。
唯一無二の息子、山中幸元を、山中家の本家にあたる別所氏の家臣である黒田幸隆に預け、実子のいなかった黒田家の養子となったのですが、黒田も秀吉によって滅ぼされてしまいます。居所がなくなり9歳で流浪の身となり、伯父を頼って伊丹に落ちのびたといわれています。
武士を捨てた
父の死後の日本の状況から、武士として新たに人生を切り開いてゆくことには無理があると判断したのでしょう。
武士と山中という姓とを捨て、鴻池直文としてゼロから酒造業に取り組んだのです。
よく知られているように、伊丹は酒どころです。
おそらくそこに着目し、江戸時代の始まりの時期に酒造業を始め、にごり酒ではない清酒の開発に成功しました。本格的な清酒の生産は日本で初めてだったといわれています。
そしてこの頃、江戸が大都市へと急成長を遂げてゆく時期であった事から、新市場としての江戸へ、大量の清酒を送り込むことができたので、事業は成功したのでした。
やがて両替などの、現代では金融業といわれる事業でも成功し、鴻池が怒れば大名が震えあがるという状況になってゆきます。
父への思い
44歳になった幸元は高野山へ参拝し、父ゆかりの浄智院を再興して上池院と改め、山内に父の墓を建立したといいます。
透き通った清酒が比較的安価で、庶民にも手の届く楽しみになったこと。
事業がうまく行き、絶大な力を得たこと。
幸元にとって事業という戦に勝ち抜いて天下を取ったといっても過言ではありません。しかし、名将であった父親の子でありながら、武士と姓とを捨てたことの許しを得たいと思いからの行動だったのではないでしょうか?
featured image:デジカメで撮影, Public domain, via Wikimedia Commons
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