日本列島においては、縄文時代という石器と土器を使用する極めて長い一部栽培を含んだ狩猟採集時代を経た後、稲作の導入による弥生時代に進み、さらに強い権力を有する大王が統率する国家という体制が構築されて行きました。
日本の国家という体制の構築の過程では、日本列島の各地域において小国家のようなものが発生し、核となる小国家としては、奈良盆地に発生した大和王権と、出雲大社のある現在の出雲市に発生した出雲王権が挙げられます。
大和王権は、当時日本の重要地域といえる近畿地方の要となるところにあり、建国場所の選択について納得できます。
出雲王権の出雲は日本海側の海運ビジネスに有利であり、大和王権と利害が衝突する可能性も少なく、独自の海側経済圏を創りやすいという利点があります。
出雲王権は海運に長じた人々が築いたものかもしれません。
神話のつながり
不思議なことに大和王権についての神話に、出雲王権についての神話がつながりがあることです。このつながりの神話は、出雲王権を懐柔して取り込むため、大和王権によって作られたという説もありますが納得できません。
古代の人々は現代の人々より遥かに信心深く、神話の一部を黙殺するようなことなどはあったとしても、神話に関して偽りの内容を作り上げて記録するというようなことは避けていたという感じを受けています。
大和王権と出雲王権のメンバーはご先祖が同じで、互いに親戚関係にあるとも解釈可能な記載が古事記や日本書紀にあります。
降伏に近い形で国譲りをした側の祖先神話は抹殺されてしまうのが常で、本当に両王権の間に関係がなかったのであれば、親戚関係をほのめかす神話が残されることはなかったでしょう。
近畿地域における日本建国着手の動きに関しても、ニニギノミコト系によるものとニギハヤヒノミコト系によるものとの二つの天孫集団があったことが記紀において示唆されています。
出雲王権
出雲王権は国譲りをする代償として、壮麗な神社を出雲に建立することを大和王権に要求しました。自分達の出自をおろそかにすることには耐えられなかったからでしょう。
3本の巨木を束ねた柱が出雲大社の構内の地中から実際に発見されています。
つまり大和王権は、大和王権の管理内のどの神社にもない高さの壮麗な神社を出雲王権のために建立し、出雲王権に関する神話を認めたのです。何の関係もない屈服した他の王権のために、このようなことを通常するでしょうか。
なお、出雲の荒神谷遺跡の地中から、多数の銅剣や銅矛および銅鐸が発見されていますが、これらのものは、大和王権との交渉が決裂した場合の備えであった可能性があります。
出雲王権側もいざというときのために覚悟をしていたのでしょう。
これらの銅剣や銅矛および銅鐸は、大和王権管理域内から出土されるものに類似しています。
一方、出雲王権の勢力範囲の古墳は四隅突出型古墳と呼ばれるもので、大和王権の勢力範囲内の前方後円墳とは異なっています。
出雲を出身地とする野見宿禰の子孫とされる土師氏が大和の大王のために巨大な前方後円墳を築いていったことを考えると、出雲の建国着手は、大和の建国着手より少し早かった可能性もあります。
それぞれ建国の強い意志を有していた二つの集団が、若干の時期的ずれを伴って日本列島の大和と出雲の二つの地域に王権を創り上げていったという可能性も考えられます。
※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!