九州の戦国大名である、大友義鎮がキリスト教に入信した理由を私なりに考察しました。
大友義鎮と塩市丸
大友氏は、鎌倉時代初期に、相模国大友郷に興りました。つまり鎌倉時代に、源頼朝に抜擢され、その後、豊後の地頭職や守護に補任されました。戦国時代には、戦国大名化してゆきます。
大友氏21代の当主 大友義鎮(おおともよししげ)は、法号が宗麟(そうりん)で、大友宗麟としても知られています。
義鎮の父である大友義鑑(おおともよしあき)は、義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策しましたが、義鎮派の重臣達が反対し、塩市丸とその母は殺害され、義鑑もそのときの怪我が原因で死去しました。
義母の影響で跡目争いが発生する例は古来から多くありますが、おそらく義鎮の器量は塩市丸の器量をはるかに凌いでいることが、周囲の人々には明白であったのでしょう。
義鎮の活躍
家臣達が英明な君主を望むことは当然のことです。自分の身の安全にもかかわるからです。
しかし義鎮は、実の父と血のつながった弟とを一度に失ったことになります。
武士社会では珍しいことではない事であっても、若い義鎮にとってショックであったのであろうと憶測します。
その後、義鎮は対立していた大内氏を政略によって抑え込むことに成功し、これによって大内氏に服属していた北九州の国人勢力を服属させ、肥後の菊池氏も滅ぼし、北九州に大勢力を構築しました。
義鎮は足利将軍家に多額の献金を行うなどして、将軍家との関係強化にも努めました。義鎮は戦にも強かったのですが、際立つのは戦略ではなく政略の巧みさです。
なぜ入信したのか
何故、義鎮はキリスト教に入信したのであろうか。
島津軍と戦った時に使用したフランキ砲などの新しい西洋の武器にも結構関心があったようですが、むしろ、多感な若い時に血族の間で発生した流血も影響があったと思います。
つまり心に救いを求めていたからではないでしょうか?
featured image:大徳寺塔頭瑞峯院蔵, Public domain, via Wikimedia Commons
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