旧日本軍 青年士官は私生活にも制約が多かった。
それでも若い彼らはお洒落をしたかった。
大学の夏休みに日記の宿題?
旧日本陸海軍には部隊指揮を執る士官養成のため、陸軍士官学校と海軍兵学校があった。
大学進学率50数%の現代と違い、旧制高校や大学へのそれが数%の当時、士官学校・兵学校はこれら高等教育機関と同等以上の難関校だった。
例えば兵学校では受験資格は16~19歳だが、身体測定で相当数が選別され、本試験で高度な学力が審査された。
つまり全国民中選りすぐりの、エリート中のエリートが入る学校だったのだ。
そんな士官養成学校で冬休みや夏休みには宿題の日記があった。
「小学生か!」と突っ込まれそうだが、この日記は重要な課題なのだ。
まず書き方に小煩いキマリがあった。
- 自分のことは「余」と書く
- 難語ではなく普通の語を使用
- 「娑婆」など俗語や「お餅、お握り」など幼稚な言葉は不可
- 「つくづく感じたり」は「痛感せり」のように簡潔に表現
- 大臣官房に定めたる用字例に準拠すべし
などである。
内容は、期間中(週毎)及び一日(時間毎)の行動予定と、実施行動及びそれに対する所感である。
この課題日記は提出して事細かく評価指導を受け、いい加減なものは当然叱責される。
それはつまり軍人としての資質を問われることであり、決して疎かにはできない厳しい課題だった。
このように旧日本軍の将兵養成機関では、現代では小学校の宿題程度にしか扱われない日記が重要な教育に位置付けられていた。訓練中の将兵にとっては、日々の言動や出来事つまり学んだ事柄を、反復筆記することで心身に刻み込むことができ、意志実行力養成に資するとされたからである。
また特に士官候補生にとっては、生死の境にある困難な戦場における、冷静で簡潔正確な報告書(戦闘詳報など)作成の訓練でもあった。一方、日々の言動記録や所感に滲み出る思想信条から、異端や不適格者の早期発見とその矯正及び排除の目的もあった。
日記の宿題は今も昔も嫌なものである。
それでも青年士官たちはお洒落をしたかった
青年士官の階級は少尉から始まり、昭和18年の月給は70円で、現代なら40万円弱ぐらいだろうか。
新社会人の収入としては悪くないが、士官には軍服は支給されず自前たった。
軍服は一種類ではなく、例えば海軍では、冬用第一種、夏用第二種、正装礼服各種とあった。
手袋、軍刀、拳銃なども自腹で、着替え用も必要である。しかも洋服は今のような既製服は少なくてオーダーメードが基本の時代、価格も高い。
その負担は大きかっただろう。
だが軍人とはいえ青春真っただ中のお年頃、お洒落には敏感だったようだ。
オーダーメードだから自分の好みを入れることができ、長袴(ズボン)を規定より細くしたり、詰襟のカラーを高くした。因みに一般社会でも高いカラーが流行り、「ハイカラ」という言葉が生まれた時代である。
また軍帽も他国軍を真似て、上部の形・大きさや目庇の角度を変えた。
もちろん軍の規定はあったが、陸軍の皇族士官の間でも流行っていて御目こぼしがあり、陸軍で流行した。
オリジナル制服といえば、今なら不良学生の学生服、長ラン・短ラン・ボンタン。
カッコ良く見せたいという若者の気持ちには、今昔を問わずの感がある。
スマートな海軍士官も結婚は不自由だった
海軍士官が結婚する場合には、「海軍現役軍人婚姻取扱規則」により、所定の手続が必要だった。
1.相手の市町村長宛て照会・照会事項
・教育の程度
・処刑処罰の有無及び平素の行状
・健康の状態
・職業
・父母の身分職業
・実家の生計の概況
・民法上の差支えの有無
・婚姻に至るまでの経緯その他婚姻の許可につき参考となすべき事項
・婚姻の可否に関する意見
2.婚姻願
上記照会事項を所定の婚姻届書類に記入し、所轄長(艦長、航空隊司令など)に提出後、
司令部から海軍省人事局へ回付、審査。
3.海軍大臣裁可
警察・憲兵による身元調査を経て、海軍大臣が裁可。
ある士官の婚姻届けには、本人から海軍大臣まで30ほどの押印があったという。
驚くべき煩雑さである。
しかも身元調査不十分などにより、差し戻し再提出がしばしばあったらしい。
白い詰襟軍服の海軍士官は憧れの的だった。
しかし映画ような基地近くの女学生との恋などはまづ成就しなかった。
いわんや行き付けの料亭の娘などとは、そこが格式ある高級老舗であろうと不可能なのだ。
大抵の結婚相手は、同じ海軍部内の上官先輩後輩同僚の親族に求めることが多かった。
モテモテの海軍士官も結婚は不自由だったのである。
時代変われば品変わる(?)である。
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