新選組に所属していた? 結城無二三

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昨今の日本の歴史教育の場においては、これまで幕末から明治維新に至るまでの過程で、非常に大きな貢献をしたと見做されてきた坂本龍馬が教科書の記載から外されるなど、新しい動きが顕著になっている。
こうした動きは長年に渡る歴史研究者の各種の史料の検証の積み重ね等によって、ごれまでは幕末の風雲児として、明治維新に大きな影響を与えたと考えられてきた坂本龍馬の位置づけを学問的には証明できなくなったと言う事なのだろう。

明治元年は西暦1868年であり、現時点の2023年から数えれば実に既に150年以上も昔の事であるため今後の一次史料等の研究が進めば、更にこれまでの幕末・明治維新時の通説は覆されるのかも知れない。
そんな激動の幕末・明治期を生き抜き、表の日本史の中で埋もれた存在ながら、ある種破天荒にして波乱の人生を送ったと目される人物のひとりとして、結城無二三という存在がある。

この結城無二三という人物の経歴も、その大半が彼自身が他界した後に、子でありジャーナリストとなった禮一郎の著作によるものが多く、実際の歴史の一次史料としての価値は学問的には認められていない。
しかしここでは敢えて、そうした学問的な事実とは間を置きながら、結城無二三という数奇な運命を辿った人物について、しの嫡男の禮一郎の著作の記述を元に紹介してみたい。

目次

結城無二三の生い立ち

結城無二三は1845年に甲斐(現在の山梨県)の医師の家系の古屋家の嫡男として生を受け、幼名は米太郎、次いで有無之助を名乗ったとされ、後に自ら祖先とされる武家の性と併せ結城無二三を称した。
結城性を称したのは祖先の結城朝光が、鎌倉幕府や室町幕府に仕えた由緒ある武人であったと自負していた為であり、無二三とは天下に自分程の人物は滅多にいないとの自信故だったと見做されている。

このあたりの名前の由来を聞いても、如何に彼自身が名門の武家の出自であるという、由緒正しい血統の生まれであり、尚且つ自分自身の能力について若い時分にありがちな、自信家であった事も感じられる。
結城無二三は16歳を迎えた1860年に実父の跡を継いで医者となるべく、医術の研鑽を理由に江戸で出て、翌1861年に徳川幕府の御典医の書生に収まるが、同時に剣術道場へも通い始める。
当時の江戸は1853年にアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来訪した衝撃で、武士以外に町民らもいざと言う事態に備え剣術修行を始める者が多かった時代で、結城無二三もそのトレンドに嵌ったと思われる。

結城無二三は剣術道場で尊王攘夷派の志士らと知己を得たと目され、その思想に共鳴し医術の研鑽を捨てて、儒学者の大橋訥庵の門下生となり、更に徳川幕府が設置していた講武所に入り洋式砲術を学んだとされる。
江戸入りした翌年の1862年には井伊大老が桜田門外の変で討ち取られる事態が発生、これ関与していた儒学者の大橋訥庵が幕府方に捕縛された為、その門下生であった結城無二三も身を隠し、一旦甲斐に戻る。

甲斐では実父が病により急逝した為、他の親族らからは跡を継い医師となる事を嘱望されるが、血気盛んな結城無二三はその道を由とせず、尊王攘夷の実現を目指し、江戸を経由してく京へと上った。
結城無二三が上京したのは1863年若しくは1864年頃とされているが、そこで彼が実際に目にした尊王攘夷派の志士達の大半は、自身が抱いていた願望とは程遠い無頼の徒であり、大きな失望を味わったと言う。

京都見廻組を経て新選組にも加入したとされる結城無二三

こうして尊王攘夷の大きな志を抱いて上京したものの、その地の尊王攘夷派の実体に自身の描いていた理想と現実の大きな隔たりを実感した結城無二三だったが、江戸時代の人脈を辿り京都見廻組の一員に加わった。
京都見廻組は1864年に当時徳川幕府の京都守護職を務めていた、会津藩主の松平容保の指揮下で組織された治安維持部隊であり、基本は幕府の直臣で構成されていたが結城無二三は寄宿人扱いの一般隊士として参加したと言う。

新選組も1863年、徳川幕府の第14代将軍・徳川家茂の上洛に際し、浪士を集めた部隊として同じく会津藩主の松平容保の指揮下に組み込まれた組織であった為、結城無二三は早い段階でその代表たる近藤勇らと知己を得ていたとされる。
結城無二三は1864年と1866年の2度実施された徳川幕府方の長州征伐に際し、洋式砲術の腕を見込まれて参戦、並行して1868年頃には既に新選組へ隊士として加入していたとも言われている。

翌年1867年11月に結城無二三は、同年4月まで新選組に参謀として所属していたが、新組織の御陵衛士を結成して離反した伊東甲子太郎らを誅殺した、所謂油小路事件に実行役として参加したとされている。
この油小路事件の直前に坂本龍馬の暗殺という事態も起こっているが、結城無二三ら新選組の主だった隊士達は伊東甲子太郎らの誅殺を実行すべく、その時期には謀議を重ねており、坂本龍馬の暗殺には関与していないと述べられている。

その後1868年1月には徳川幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が始まり、結城無二三も緒戦の鳥羽・伏見の戦いに参加、敗れた後に江戸に逃れ、新選組が甲陽鎮撫隊へと改組された後も従軍を続けた。
しかし同年3月、江戸上は無血開城されて徳川幕府最後の第15代将軍・徳川慶喜も謹慎・蟄居となり、近藤勇は新政府軍に偽名で投降したものの、素性が暴露されて処刑され、同年5月に結城無二三も自ら投降、その戦いを終えた。

明治維新後にキリスト教に目覚めた結城無二三

前述したように徳川幕府方として戊辰戦争に敗れ、1868年5月に自身の戦いを終えた結城無二三は、激動の幕末期を生き抜いたとは言え、ぞの時点で未だ23歳と若年ではあったため、新しい時代へと踏み出した。
結城無二三は1873年には一旦魚屋を開業するが成功せず、その2年後の1875年には博覧会を催す等の活動に従事し、並行して同年に地元の元甲府藩士の娘・前田マヅと婚姻、甲府において酪農業を新たに始めた。

しかしこの酪農業も結局うまくいかず廃業、明治の世から離れ隠遁生活を送る事にし、妻のマズと共に東八代郡の廃寺・大積寺のある山中に居を移し、その際に書物として聖書を持参、これが後の人生を大きく変える事に繋がる。
以後1877年にかけて結城無二三は大積寺のある山中の開墾生活を続け、その土地の無償での借地権が認められ、翌1878年にはそこで嫡男の禮一郎が生まれるも、妻のマズと共に病床に臥し、持参した聖書を思い出し祈祷を行った。
すると妻のマズ共々、病状が回復した為、聖書を読み込みキリスト教の教えに独学で取り組み、翌1879年にキリスト教の宣教師が長野に派遣されている事を知り、山を出てその宣教師・イビイを尋ね、同年4月に家族3人で洗礼を受け、正式なキリスト教徒となった。

以後の結城無二三は敬虔なキリスト教徒として宣教師・イビイの教えを受けつつ、自らも伝導活動に勤しみ、1880年には妻子を甲府に残し、単身で東京・麻布の東洋英和学校へ入校、神学を修めつつ、教会での伝導にも従事した。
その後結城無二三は静岡の複数の教会で熱心にキリスト教の伝道活動を行い、1885年には故郷の甲府へと戻り、日本で初の福音士の地位を授けられ、地元の山梨は元より、広く京・大阪方面に迄その名を知られる存在となった。
但し当初に結城無二三が手にした福音士という存在は、個別の教会に限定されず広くキリスト教の伝導を正式な牧師に成り代わって行う事が可能な地位であったが、後にこの地位は伝道の初心者を表すものに変更されたと言う。

その為、卑近な話ではあるが結城無二三自身の伝導活動による収入は激減し、そうした福音士の地位の変更が行われた背景には、キリスト教会内部の派閥争いが介在した結果とも目され、何とも世知辛い。
こうした状況に結城無二三自身が嫌気を生じたのか否かは定かではないが、1901年には伝道活動を止めて大積寺のある山中での隠棲を再び始め、後に東京や大阪に転居した後、1912年、63歳で胃癌にて他界し生涯を終えた。

結城無二三の今日の評価について

若かりし頃は青年の志に燃えて、当時の幕末の世相を反映し尊王攘夷の世の実現を目指したとも言える結城無二三だが、京都見廻組を経て新選組にも加入したと言う経歴については一次史料の裏付けがなく疑問視されている。
それを以て結城無二三が自己顕示欲の強い、謂わば信用ならざる人物であるとの評も一部には根強いが、個人的にはそうした評価は的を得ていないのではないか、と言う感想を禁じ得ない。

何故ならばその結城無二三が京都見廻組を経て新選組にも加入したと言う経歴は、本人が語ったり記述したものでは無く、冒頭でも述べたように嫡男でジャーナリストとなった禮一郎の著作に記されたもだからだ。
それにしても明治維新後には自身の病気が元で敬虔なキリスト教徒となり、熱心な伝道活動を行い、その分野で名を成したものの、キリスト教内部の派閥争いで地位を喪失したと言う晩年はかなり物悲しい。

※画像はイメージです。

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