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瑞獣は何故善政の時に出て来るのか

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瑞獣(ずいじゅう)で最も良く知られているのは、ビールのラベルの麒麟だろう。
中国を由来とする獣で、現れる事は吉兆とされる。

この瑞獣は種類毎に出現条件が設定されているのだが、共通した要素としては「政治が好ましい状態である事」と括る事ができる。
善政との間に、何か因果関係があるのだろうか。

目次

人が捕獲できる程度の獣

瑞獣とは、麒麟の他に鳳凰、応竜、霊亀を主なものとし、立場としては動物達の王であるという。
麒麟の場合、鹿に似た姿で背は5メートルほど、顔は竜、牛の尾と馬の蹄、背の毛は五色に彩られ、身体に鱗があり、ツノは古くは1本、もしくはツノ無し。
性質は穏やかで、虫や植物も踏まずに歩き、通常人が傷付ける事は出来ない。

『礼記』によれば王が「仁」ある政治を行う時に現れるとされる。
一方、孔子がまとめた『春秋』には麒麟が現れ捕らえられたが、人々はそれが何であるか分からず打ち捨てた「獲麟」というエピソードが語られる。
これに居合わせた孔子は、自分の無力さを感じ、それ以上『春秋』を書かず、このエピソードをもって終章にしている。

認識しておくべきは、麒麟は何かしら良い性質はあるものの、人が捕らえられる程度の能力しかない、という事だ。
善政と共に現れるとされるが、孔子が述べた通り世が乱れていても見つかる事もある。つまり「麒麟などの瑞獣が現れたからその時代が良い」というのは結果論に過ぎないのではないか。

瑞獣と善政の因果関係

改めて考えよう。瑞獣とは一体何なのだろうか。
動物の王という説明は、そのまま信じるのは難しい。
動物というのは群れは作るが、王政は敷かないものだ。あくまで人間の認識の範囲で「一番良い感じの動物」という意味における「王」というなら分かる。

その形状は、複数の動物で喩えられるが、キメラ生物という訳ではなく、特徴から類推すると「そう見える」という比喩表現の範囲だろう。
「筋肉はゴリラ! 牙は狼!」と書かれていたからといって、人間とゴリラと狼のキメラではないのと一緒だ。「カモシカのような脚」でも同じだ。つまり、著しく形状の異なる珍しい動物が発見された、という辺りだろう。

麒麟の例では極端にサイズが大きい。
鹿のような、と表現される以上、ひとまず鹿の仲間と考えて良かろう。
「鱗が生えている」といって、そのまま鱗であるとは限らない。
伝承は限りのない伝言ゲームだ。

鹿の場合、子供の頃は白い斑点が付くいわゆる「カノコマダラ」であるから、この性質が残った個体なら、ブツブツしたものを「鱗」と表現する可能性はある。また、背の高さ故に首が長く見え「蛇のように長い首をしていた」と語られれば、そこにも鱗の入り込む隙がある。
当然、麒麟の特性は全くと言って良い程当てにならない。ただ「何かしら特異な性質を持った動物が現れ、それが噂になって広まった」という事実はあったのではないか。

あなたが動画サイトなりテレビなりで、朝のニュースを観ていると考えよう。
昨晩、隣国が戦争を始めたとして、そこに「変な動物が見つかりました」という記事に目が留まるだろうか。
当然、戦争のニュースを第一とし、そんなどうでも良いニュースは見過ごされる。
つまり、善政に現れるのが瑞獣ではなく、善政で平穏な時代だからこそ、瑞獣に気付き人の口の端に上がる、そういう事だろう。

これはリアルなキリン

瑞JYUは何しに人里へ?

ここから、オカルトに少し踏み込もう。
瑞獣に本当に動物の王として神秘的な力があるとしたらどうだろう。
多くの文明において、王権は神によって与えられた特別な権利であるとされる。
皇帝を「天子」と呼んだのもこの思想からだ。

動物と人間がひと続きの存在であるなら、政治形態はともかく、動物にも当然王が存在し得る。
だとしたら、動物の王たる瑞獣は何しに人里へ?

遍く生物の王のうち、人の王が特に優れているため、動物達の統治も委ねようという臣従の意味ではなかろうか?
これによって、人々は狩猟で獣を捕る事が容易くなる。
狩る狩られるは生物の掟であるから、瑞獣もそれ自体を悪とは見なさない。
そして、人は仁をもって統治されているため、無闇に狩り尽くすような事はない。必要なものを獲り、住処を壊したり、仔獣に手を出すような事はない。
このため、人は充分な物を得ながら、生態系のバランスは良好に保たれる。

一方、人の王が悪政を敷くなら、人々は苦しみ山の獣も狩り尽くそうとする。
瑞獣は臣従どころか獣の大半を引き連れ山奥に引き籠もり、姿を見せる事はほとんどない。
この時、奥の奥まで分け入って瑞獣まで狩り出せば、翌年の獣は育たず、山は死んでいくばかり。こうなっては人の王も変わる時期、易姓革命、大きな戦乱で人の世がリセットされるのも目前だ。
つまり、瑞獣に神秘的な力があろうがあるまいが、善政の時に姿を現すという現象は観察される。

幸福の総量は

今の時代、瑞獣は現れているだろうか。
人はそれに気付けるだろうか。
だが大きな問題を無視して、瑞獣の事ばかりおいかけぼんやりしているのも、それはそれで問題だろうか。

否否、ぼんやりしていられる時はぼんやりしているというのもまた大事な事だ。
未来を考え不幸に浸るよりは、不幸になってから不幸に浸った方が、不幸な気分の総量は少なくなるというのが道理であろう。

参考:
ウィキペディア 瑞獣・麒麟・獲麟

※画像はイメージです。

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