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戦時日本最悪の闇 731部隊(後編)

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人間の人格を無視し、満州の地で残虐の限りを尽くした731部隊。
しかし、悪夢の日常も永遠には続かない。日本敗戦のその日が731部隊にも迫っていた。
それは本来、石井四郎をはじめとする731を率いた者たちの処罰を意味し、社会から悪を消し去る裁きが下ることを意味していたはずだったのだが。

目次

戦争の終わりと731の崩壊

地獄の日々にも終わりが訪れる。敗戦の足音が731部隊にも迫っていたのだ。
1945年8月8日、ソビエト連邦は対日宣戦布告を行い、翌9日には一斉に150万とも言われるソ連軍が国境を越えて満州国に侵攻し、関東軍総司令部は一気に慌ただしくなる。
8月10日、総司令部から731部隊に「一刻も早く転戦の方針で独断専行せよ」との命令が入る。
転戦、つまりソ連軍との満州各地での戦闘に向けて部隊を展開するように、という意味ではない。
少なくとも当時の関東軍の中で転戦は「退却」を意味しいていた。

そこからは731部隊は大混乱に陥る。
731部隊の退却はただ部隊員やその家族が撤収すればいいという問題ではない。
保管している細菌を、相当の年月の中で収集した実験データ、そして悪魔の所業を証明する根幹でもあったマルタの存在、731部隊のすべてを抹消しなければならないのだ。

731部隊の中には各種研究ごとに「班」が設置されていたのだが、その中に石井四郎直轄の特別班という班が存在していた。この特別班は石井の兄弟と主に彼の出身地の集落の人間たちで構成されていた。
いわば身内だけで固めた班員の構成を見た時点で、この特別班の特殊性がにじみ出ていると思うのだが、この特別班の主な仕事こそがマルタの管理であり、731部隊の要とも言える班だった。
その特別班に石井直々の命令が下る。
「マルタを全員処分し、全員直ちに緊急撤退せよ」というものだった。
特別班はすぐにその直命を実行に移す。

当時の混乱故か、マルタ殺害方法については諸説あるものの、特別班はマルタのいる監獄の換気装置から毒ガスを注入し殺したとみられている。
広くもない部屋の中に毒ガスを放たれてはひとたまりもない。
大半のマルタはそこで絶命した。
しかし、数人は死にきれずに鋼鉄製のドアを叩き、唸り声をあげて苦しみもがいていた。

特別班員達はゆっくりとその分厚いドアを開くと、苦悶するマルタたちを次々に銃殺していった。
特別班の面々は無残な遺体となってしまったマルタの足を引っ張って外まで運び、掘った巨大な穴に次々と放り込んでガソリンを撒き火をつけた。
死体はなかなか燃え切らない。
設備の整った現代の火葬場でもご遺体を焼くのに1時間程はかかるのだ。
それを大勢、一気に焼き切ろうとしたのだから時間がかかるのは当然という一方でマルタ達の最後の抵抗のようにも感じられてならない。
しかし、石井の命令は「直ちに緊急撤退」だ。
撤収を急いだ特別班員たちは焼却作業の半ばで死体に土を掛け、雑に穴を埋め立てると他の部隊員達が隠蔽作業に勤しむ中、自分たちだけがさっさと撤退していった。

特別班が一目散に満州を脱出する一方、各研究班は自分たちの研究成果の処分に奔走していた。
細菌のストック、おびただしい数のノミやネズミ、実験から得たデータの書類、臓器のホルマリン漬け、細菌培養用の寒天などなど、次々に焼却炉に放り込み、間に合わない分は直接重油をかけて燃やし731部隊が積み重ねた悪行を灰にしていった。
中には焼却処分が間に合わず、川に打ち捨てられた人体標本や野に放たれたノミやネズミもあったという。
その最中、石井四郎は独自に行動を進めていた。
部隊長としてソ連軍から逃れるために引き揚げ列車の手配を行う一方で、自分に近しかった特別班を優先的に逃がし、その上で731部隊に蓄積された各種資料や菌株を密かに持ち出していたのだ。
731部隊の研究データは自分の切り札になる。そう思っての行動だったことは明白だ。

一般の隊員の中には資料を持ち出し、上官から折檻を受けた者もいるというのになんとも自分勝手なものだ。
石井の自分本位ともとれるエピソードは他にもある。
731部隊幹部らによる撤収作戦会議の際、石井は別の場所に点在する731部隊支部にいる隊員の証拠隠滅と全員自決、かつ731部隊本隊の隊員家族についても全員自決を主張したのだ。
これには幹部らも猛反発、会議は紛糾した。
結局、石井が折れて全員自決は回避に至ったものの、特別班の優先撤退命令などから考えると石井が自身と自分の身内には自決させる気がなかったことは想像に難しくない。
石井は731崩壊の瞬間まで我が身のことしか考えていなかったのだろう。
最後に731部隊の建物は爆破され、悪魔の城は炎に包まれる。
731部隊の終焉の時だった。

裁かれなかった悪魔

731部隊はこうして日本の敗戦と共に崩壊した。
しかし、事は戦争、さらに日本が敗戦国である以上、軍事裁判は免れない。
撤退する隊員達には石井四郎の名で最後の命令が伝わっていた。

1つ、帰国した後も731部隊に在籍したことを隠すこと
2つ、あらゆる公職につかないこと
3つ、隊員相互の連絡を禁ずる

部隊員達への石井の影響力というのはすさまじかったのだろう。
特に下級の部隊員たちの多くがこの最後の命令を守ったため、恩給を得たり、職に就くことが難しくなり困窮した隊員もいたという。

一方で部隊内でも上層部にいた研究者や医者などは元々所属していた大学などに復帰し、なかには731部隊での研究や実験結果を活かして医学博士となった者もいた。
敗戦の気配が忍び寄る1945年5月、731部隊に従軍経験のある軍医将校が京都帝大にノミの一種である「イヌノミ」によるペストの媒介能力についての研究結果をまとめた論文を提出する。
この将校は提出直後に事故死したとされているが、戦後9月には同論文をもって医学博士の学位を授与されている。

この論文の中で将校は9頭のサルにイヌノミを付着させて実験し、その際のサルの様子について、「イヌノミ付着後6~8日で頭痛、高熱、食欲不振を訴えた」「39℃を超える発熱が5日間続き、発症から6日目に死亡した」と記載している。
が、この内容があまりに不自然なのは明らかだろう。
まず、サルが頭痛や食欲不振などを訴えるわけがない。
よしんばサルが痛みや身体的違和感を表したとして、それをどのようにして人間が頭痛だと断定できるというのか。
また、調べてみるとサルの平熱というのはそもそも38℃程度あって、39℃の発熱が死に至るほどの高熱というわけでもない。
では、この軍医将校に頭痛を訴えたサルとは一体何だったのか。

サルが人間、つまりこの論文が人体実験を下地に書かれた論文だと推察するのは簡単だろう。
2018年、この論文を発表した将校に学位を授与した旧京都帝大、現在の京都大学は再調査を求められたものの、大学当局は当の将校がすでに亡くなっている上、実験ノートや生データがないため調査を進めることは難しいとしている。

そして731部隊の本質であり、部隊内で繰り広げられたおぞましき研究の総指導者であった石井四郎。
彼は部隊の、そしてなにより自身の保身のため、戦後早々にGHQに取り入った。
密かに持ち帰っていた当時の世界最高水準の細菌データをアメリカ側に提供。
恐らく今後二度と同レベルの研究を行うことはできないだろう、悪魔研究結果を手に入れたアメリカは石井ら731部隊幹部に対し形式上の尋問を行っただけで「731は戦犯に値しない」という見解を出し、部隊の処罰を求めていたソ連を退けた。

こうして何千という人間を虐殺した悪魔たちは、その忌まわしき所業が白日の下に晒されることもなく、当然の裁きを受けることなく、平然と戦後の日本社会に混ざりこんでいったのだ。

731と帝銀事件

自らが731部隊だということをひた隠し日本に戻った隊員、おぞましき実験から得た研究結果を携え何食わぬ顔で本職に戻っていった医者や研究者、そして悪魔の研究をアメリカに提供しお咎めもなく過ごした石井四郎。
731部隊員たちは満州で起こしたあの悪夢などまるでなかったかのように、激動の戦後日本社会に溶けん混んでいった。
日本はGHQの指導の下、戦後の混乱と貧困からの脱却を図るために経済再建と民主化を推進。
敗戦から復興を目指して人々は喘ぎながらも近代国家日本に向かって1歩ずつ前進していた。

そんな戦後のにおいがまだ色濃く残る1948年、今なお戦後最大のミステリーとも評される「帝銀事件」が発生する。
帝銀事件とは1948年1月26日に東京の帝国銀行椎名町支店で発生した強盗殺人事件だ。犯人は「東京都から来た防疫関係者」と名乗り、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と言って銀行職員とその家族16人に毒物を飲ませ、最終的にうち12人が死亡した前代未聞の毒殺事件だ。

犯人は現金16万4450円と小切手1万7450円(1948年当時の国家公務員の初任給がおよそ月額1,500円~2,000円程と言われている)を奪い、現場から逃走したものの、その後の捜査によって画家の平沢貞通が逮捕される。
平沢は無実を訴え続けたものの死刑判決を受け、1987年に獄死した。

犯人が逮捕されて裁判も結審しているにも関わらず、帝銀事件が戦後最大のミステリーと呼ばれ続けている最大の所以が平沢冤罪説だ。
事件発生当時から使用された毒物やその毒物の飲ませ方などから、毒物の研究に携わっていた旧軍関係者の仕業ではないか、逆に毒物に精通した者が飲ませたにしては手際が悪く、毒物を手に入れる機会のあった素人の仕業ではないかといった憶測が飛び交っていた。
そんな中で捜査関係者が目をつけたのが731部隊だった。
捜査関係者が731部隊に疑いの目を向けたのには理由がある。

1つ目の理由が犯行に使用された毒物とされている「青酸化合物」が731部隊で研究された毒物と関連があるのではないかと考えられたこと。
2つ目に犯行に使われたピペットなど(液状の薬や毒を測定するためのガラス製の医療機器)が旧日本軍の一部の研究所で細菌学の研究に使用されていた特殊なものであったこと。
3つ目に犯行時、犯人が銀行員らに話した「予防薬・解毒薬」の説明が毒物に対してかなりの知見を有しているように見受けられたこと。

そして4つ目に犯人が毒物を飲ませる様子が731部隊で行われていた毒物を飲ませる手順に酷似していたことが挙げられる。
こういった理由から捜査関係者は戦時、旧陸軍の中で毒物・細菌研究の最前線にいた731部隊に目を付けたのだ。
刑事らは複数の731部隊隊員らに接触。
隊員らはしきりに事件生存者の証言を基に描かれた似顔絵を見せられ記憶にないか尋ねられたり、中には犯人の人相と似ているなどと言われた者もいたようだ。
実際に後に集まる機会を得た部隊員達の間でも、「犯人は平沢ではない」、「手口や使われた毒からいって731部隊の者の犯行だ」などいう話もあったという。
また、刑事らは石井四郎からも主に毒物の特性について意見を聞くという名目で聴取を実施しており、当時の警察が帝銀事件の犯人は元731部隊関係者という説を強く支持していた様子が窺がわれる。

しかし結局は731とは無関係とされる画家の平沢が逮捕され、事件の捜査は幕引きとなる。平沢逮捕と捜査終結にあたってはGHQからの横槍があった、政府からの圧力がかかったといった陰謀説が今日でも根強く残っており、本当に平沢は犯人だったのか、731部隊の介入はなかったのか、真相は薄闇の中を漂っている。

さて、使用された毒物や毒を飲ませる手口から731部隊の関与が疑われた帝銀事件だが、もしも731部隊員が真犯人だったとして、その動機とはなんなのか考えてみたい。
よく巷で囁かれているのが、731部隊の存在や活動が長らく秘密にされていたことから、帝銀事件もまた何らかの陰謀や隠蔽工作があったのではないかという憶測から生まれた陰謀論なのだが、石井の号令の下、731の名を隠して生きることを是としていた中で元隊員がこのような事件をわざわざ起こして隠蔽したいこととはなんなのだろうか。
731の存在や悪事を隠蔽したいのであればこのような事件を起こさない方が懸命だ。

どちらかというなら731部隊の恐怖を世に知らしめるために事件を起こしたという方が理にかなっている気がするのだが、事件を起こしたのは731部隊だとする犯行声明的なものは公式には出ていないため、これも真相とは異なる気がする。
実際のところ真犯人が731部隊だとするなら、動機は陰謀説や懲悪を目的としたのではなく、本当に金目当ての犯行だったのではないか。
旧731部隊員の中には戦後、生活に困窮する者も多数おり、本当に金が欲しかっただけの強盗殺人だった可能性もあるのではないかと思う。

旧731部隊員は満州からの引き上げ時、捕虜になった時に備えて服毒自殺用の青酸化合物を持たされたり、こっそり研究所から持ち出して来ていた者もいて毒物の入手自体は難しくはない。
ただの強盗殺人にしては殺害方法が手が込んでいるようにも思えるが、731部隊員たちにとってそれが日常的なやり方だったのだとすれば、彼らがあえて自分たちにとっての非日常的な他の服毒方法を取る必要もなく、慣れたやり方で飲ませるのが最適だったとも考えられる。

平沢も獄死し、旧731部隊員たちもすでにほとんどが鬼籍の人となっている中、私たちが帝銀事件の本当の真相に辿り着くことは難しそうではあるが、もしも731部隊員が真犯人なのだとするならば、隠蔽や731の非道さを世に訴えるなどといった大義があったわけではなく、真相はこんなものなのではないだろうか。

731と薬害エイズ事件

血友病という病気をご存知だろうか。
止血に必要な凝固因子が不足し、出血した際に血が止まりにくい病気で、日本にはおよそ5,000人の患者がいるとされている。
ただでさえ病に苦しむ人々を、さらに奈落の底に突き落としたのが薬害エイズ事件だ。
1960年代から1970年代にかけて、血友病患者の出血を止めるための薬として、血液から分離した凝固因子製剤という血液製剤が開発される。
血液製剤の原料の供給は血液ドナーからの献血に依存しており、当時の技術では、製造過程で加熱処理を行うことは難しく、非加熱製剤が一般的に使用されていた。
しかし、1981年頃からアメリカにおけるエイズ症例において、患者の中に血友病患者が高い比率で報告されるようになったことから、同国は非加熱製剤の安全性を疑問視。

1985年には加熱処理によってエイズの原因となるHIVウイルスを不活化する加熱製剤が開発され、こちらが主流になっていく。
日本でも、非加熱製剤の安全性について厚生省(現・厚生労働省)が調査を行い、加熱製剤の供給を認めた一方で非加熱製剤の販売を禁止することはしなかった。
このことを盾に、一部の製薬会社は危険だとわかっていた非加熱性製剤の供給を継続。
結果、HIVに汚染された非加熱製剤は世に出回り続け、日本国内約2000人の血友病患者がHIVに感染、多数のエイズ患者を生み出してしまったのだ。

厚生省に重い責任があるのは当然として、もう1つ罪を問われたのが製薬会社―特に糾弾の的となったのがミドリ十字という企業だった。
ミドリ十字は1950年に株式会社日本ブラッドバンクという製薬企業として設立され、1964年に社名をミドリ十字に変更、当時の医薬品専業メーカー内でのトップランナーだった。
そんな同社は加熱製剤が開発されて日本で認可が下りた後も、非加熱製剤を扱い続けていた。
なぜ、危険な薬をミドリ十字は売り続けたのか。

それは非加熱製剤の在庫を売りさばきたいという「利益最優先主義」という、おおよそ人々の健康を守る医薬品メーカーの矜持から大きく逸脱した理由故だった。
他の製薬会社が「ミドリ十字の非加熱製剤は輸入の原料を使っているので、エイズの危険性が高い」(なお、エイズの危険性に原料国による違いはなく、当時のデマ)と言って営業していると知れば、アメリカで作られている製剤の原料を国内の原料だと偽るよう社員に命じ、1985年には他社が加熱製剤の製造・販売の認可を得る中、「製造が需要に追いつくか正直分からない」などと言って加熱製剤の取り扱いに消極的姿勢を取り続け、非加熱製剤の回収も行わなかった。

すべてはミドリ十字が抱えていた非加熱製剤の在庫を売りさばき、経済損失を回避するため。
まさに人の命を軽んじた結果だったのだ。
さて、このミドリ十字、前社名の日本ブラッドバンクの創設者は医学博士の内藤良一という人物だった。
内藤は戦時、731部隊に所属し、石井の片腕として細菌実験や生体実験に関与していた人物なのだ。
また、同社の顧問に就任していた北野政次は石井の次の731部隊隊長を勤めた(石井は一時、汚職の責をとって部隊長を一時退いていた)人物。

内藤は1982年に急死し、会社から去ってはいるものの創業者として基礎を築いた会社の倫理観は、731部隊を強硬に引っ張て来た非人道的な上層部の色を濃く有した企業だった可能性があり、事業の変更に伴い社名を変えたミドリ十字にもそれは引き継がれた可能性があるのだ。
こじつけのようにも見えるが、先に書いた戦時、施された洗脳や鮮烈な経験は戦争が終わり、郷里に帰ったくらいで解け、消えさるものなのだろうか。
人間というもの軽視し、自らの保身のためにそれが人の命に関わる事であっても、何食わぬ顔で隠蔽したミドリ十字。
まさに731部隊の表情そのものにも見える。

悪魔は去ったのか

1959年に亡くなるまで、石井四郎が戦後どこでどのように生きていたのか、正確なことはあまりわかっていない。
しかし、1958年に開催された731部隊に所属した少年兵らによる同窓会に石井が招かれている。
その席でこの鬼神は「諸君らは731部隊にいた為に迷惑されたことだろう、しかし国家を救う研究機関にいたことを誇りに思ってもらいたい、私はいずれ時期が来ればこのことを世界に発表する心づもりである」と堂々と演説をうったのだという。

戦後10年以上が経過し、死の前年に際しても、自身が行った虐殺が国家を救う研究であり、世界に称賛される一大事業だったと信じて疑わない、死者に対する反省の念など微塵も感じさせない悪魔のごとき思考と言っても過言ではないだろう。
この元上官の言を聞いた元少年兵はどのように感じたのだろうか。
そして裁かれなかった石井の、そして731の行い、そして行いの根底にあった倫理観は本当に日本社会から綺麗に消えてなくなっているのだろうか。

戦争を起こさないということだけではない。
政治において、企業統治において、もっと小さな人間関係において人間を人間とも思わない731の思考の亡霊が蘇ったりしないことを私たちは常に胆に銘じなければならない。

featured image:不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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