モスクワ攻防やスターリングラード攻防、クルスク戦で陰に隠れがちなレニングラード攻防戦。
実はドイツ、ソ連どちらにとっても最も長く、過酷な包囲戦だったのです。
レニングラード攻防戦は1941年9月に始まりました。
バルト諸国を飲み込みながらソ連領に食い込むドイツ北方軍集団と、カレリア地峡から迫るフィンランド軍によって古都レニングラードは完全に包囲されてしまいます。
ソ連軍は市民を動員して数百キロにわたる塹壕を掘り、バルト艦隊を浮き砲台にしてでもレニングラード防衛を続行することになります。
しかし、幹線道路と線路を抑えられた上、制空権もドイツに奪われてしまいました。
1941年当時、レニングラードには軍民併せて250万以上の人口がありました。1日当たりの食料の消費だけで当時のソ連空軍が輸送できる総重量を超えていたのです。
やがて戦闘の焦点はモスクワ前面に移り、北方軍集団からも機甲師団が引き抜かれていきます。ドイツ軍は兵糧攻めに移りました。
一番過酷だった1941年冬から42年春にかけて、レニングラードでのパンの配給量は兵士、労働者で1日125g、一般市民で65gまで減らされます。そのパンもかなりの割合でオガクズが混じった粗悪品だったのです。
電力も不足し、燃やせるものは何でも暖房の燃料として燃やされます。1942年初頭、レニングラードでは1日4000名が路上で死亡していったと言われています。
しかし、冬の到来は希望ももたらしました。
レニングラードとソ連本土を妨げるラドガ湖が凍結して、その上を直線距離30キロを走る氷上道路「命の道」が開通したのです。
絶え間ない砲爆撃と、穴にはまって水没するトラックが続出する中、文字通り命がけで多くの物資が運ばれ、工場は稼働を続けて出来上がった戦車はそのまま前線へ出撃していきました。
最前線の工場では、出来上がった砲塔をそのままトーチカにしてドイツ軍を砲撃したとまで言われています。
このような軍民の奮闘で1944年1月18日、レニングラードは本土との連絡を回復しました。
犠牲になった軍民は60万~100万とも言われています。
戦後、スターリンはこの功績をたたえてを「英雄都市」と認定しました。
しかしこの勝利の陰には数えきれない悲劇があったのは言うまでもありません。
英雄都市とされた街
現ロシア連邦
- サンクトペテルブルク(旧レニングラード) – レニングラード包囲戦
- ヴォルゴグラード(旧スターリングラード) – スターリングラード攻防戦
- モスクワ – モスクワの戦い
- ノヴォロシースク
- トゥーラ
- ムルマンスク – 銀狐作戦(1941年)
- スモレンスク – スモレンスクの戦い (1941年)
現ウクライナ
- オデッサ – オデッサの戦い (1941年)
- キエフ – キエフの戦い (1941年)
- セヴァストポリ(ロシアの実効支配下) – セヴァストポリの戦い
- ケルチ(ロシアの実効支配下)
現ベラルーシ
- ミンスク – ミンスクの戦い(1941年)
- ブレスト要塞(英雄要塞) – ブレスト要塞防衛戦(1941年)
wikipedia 英雄都市より引用した資料です。
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