太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月20日に米軍はフィリピン中部のレイテ島に上陸、比島決戦のはじまりであり激戦となったレイテ島の戦いとは?
米軍レイテ島に上陸
太平洋戦争において米陸軍のマッカーサーはフィリピン奪還を強く主張し、1944年(昭和19年)10月にフィリピン攻略作戦が実行される。
この第一歩となるのがフィリピン中部にあるレイテ島への上陸作戦です。
10月20日にウォルター・クルーガー中将率いる第6軍がレイテ島の北東部に上陸を開始した。
一度に4個師団でドラグとタクロバンの二方向から上陸した第6軍に対してレイテ島の守備に配置されていたのは第16師団の1個師団だけでした。第16師団はこの圧倒的に不利な状況に内陸の山地へ退却を余儀なくされた。また悪い事に第16師団は通信状況が良くなく、レイテの戦況を日本軍が正確に知る事はできなかった。
10月23日にマッカーサーは制圧したタクロバンで「私は帰って来た」とフィリピン人へ向けラジオで演説した。
日本軍レイテ決戦を目指す
レイテの戦況について情報が少ないまま日本軍はレイテ島の米軍を撃滅する方針を定める。
この撃滅は決戦へと重要さを増す。
レイテ上陸前に起きた台湾沖航空戦で米空母が多数撃沈したと言う誤報が正されないまま、米機動部隊が戦力低下しているこの状況を生かしレイテで決戦をせよと大本営と南方軍は第14方面軍に命じた。
フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官の山下奉文大将は、ルソン島での決戦を準備しレイテでの決戦に反対であったが命令に従い戦力をレイテに振り向ける。
レイテでの決戦はレイテに援軍を送り、増やした戦力で米軍を南北から挟み撃ちにすると構想で、フィリピンに展開した陸軍航空隊である第4航空軍がレイテ島の上空で優勢にあった事も米軍撃滅の勝算ありと日本軍に思わせた。
レイテ島米軍に制圧される
11月1日に最初の援軍である第1師団がレイテに到着した。この時の揚陸は成功したが、11月11日に到着した第26師団を運んだ輸送船団が米機動部隊からの空襲を受けて将兵は上陸できたが装備弾薬は失われた。
それでも第1師団は米軍をリモン峠で防ぐなど粘り強い戦いをし、第26師団と第16師団の残存で米軍が占領するタクロバン飛行場を空挺部隊である第2挺身団との共同で奪還する作戦も実行されたが退却に終わる。
更に第102師団や第68旅団などが援軍に到着したが、11月からレイテ島の米軍航空戦力が基地整備と共に強化され第4航空軍による空の優勢は失われていた。
12月7日にはレイテ島北西部にあるオルモックに米軍が上陸する。日本軍の背後を突き、日本軍のレイテでの補給拠点を占領したオルモック上陸によって実質勝敗は決した。
レイテの日本軍は玉砕せずセブ島などへ転進したが、7万の将兵で生き残ったのは1700人でした。
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