食べ物を捨てると、どの地獄に行くのか

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昭和の時代、景品欲しさに食べ物を大量に買い、結局食べきれなくなって捨てるという事例が社会問題化した事がある。コンプラ意識の高い現代人には信じられない出来事だろうが、そういう時代もあったのだ。

その頃の親は、ご飯粒を1粒残しても「目が潰れる」と言って子供を躾けた。
これはつまり「嘘を言うと閻魔様に舌を抜かれる」というのと同系列の話だ。

確かに、食べ物を捨てるような悪行をすれば、地獄の1つや2つ巡らされそうな気がする。
では、具体的にどの地獄に落ちる事になるのだろうか。

目次

地獄とは

地獄という概念は、宗教によって異なる。
共通するのは、何かしらの悪行に対する結果として送られる事になる、という部分である。

キリスト教においては「ゲヘナ」が地獄に相当するという考えが主流である。ゲヘナの描写には火の表現がしばしば見られ、何かしら熱関係の責め苦が行われているようだ。同じアブラハムの宗教であるところのユダヤ教でも、同一の熱関係の責め苦表現が使われている。

更に遡ってエジプト神話の場合、地獄はない。死者は裁きを受け、心臓と真実の羽の重さが比べられる。
これより重く罪深かった者は、アメミットに喰われてその場で消滅する事になる。

神道、すなわち日本神話においても、地獄は存在しない。
死後の世界として黄泉が設定されているが、そこで罪が裁かれるといった表現は乏しく、ただ「出られない」という事が明らかになっているだけだ。黄泉から妻の伊弉冉を連れ戻そうとした伊弉諾は、腐乱した彼女を目撃しているため、肉体が崩壊する責め苦とも考えられなくもない。ただ、これは摂理を曲げる途上、無理が生じていたと考えた方が自然だろう。
黄泉でじっとしている限り、特に苦しみはない筈だ。

我々に馴染み深い地獄は、やはり仏教のそれだろう。
インドを出発点とするため、ヒンドゥー教との共通点も多く、多神教故か罪状に応じて責め苦が多数用意されている。 仏教の地獄は三界六道に属するあくまで輪廻転生先の1つなので、何兆年かかけて罪を濯いだ後には、他のよりマシな世界に転生ができる。

地獄に行くために大事な事

さて、これらの地獄に、食べ物を捨てた者を収容する場所はあるのだろうか。

キリスト教の場合、カトリックで言うところの「7つの大罪」に「暴食(gula/gluttony)」が存在する。
なるほど、無闇に食べ物を買ってしまう時点まではそう見えるが、これが本当に暴食であるかというとやや疑問が残る。
何しろ、喰っていないのだ。
無論、欲望を満たすための行動には違いない。暴食しても消化不良で出るだけなので、胃に捨てるのもゴミ箱に捨てるのも大して変わらないと言えるかも知れない。
だが、罪の拡大解釈は誤審を招くだけだ。あくまで捨てる事に限れば罪はない。
逆に、「無駄にしたくない」と限界を超えて全部食べる方が、暴食になってしまう。

仏教の方はどうだろうか。
流派による違いはともかくとして、仏教には「五戒」という概念があり、一般の信者が守るものとされている。

ここで挙げられているのは、この5つである。

  • 不殺生戒(生き物を故意に殺す)
  • 不偸盗戒(他人のものを盗む)
  • 不邪淫戒(不道徳な性行為を行う)
  • 不妄語戒(嘘をつく)
  • 不飲酒戒(酒を飲む)

仏教では、食べ物を捨てる事はおろか、暴食も禁じられてはいない。

お金を捨てたら”ダメ”というルール

宗教の教義は、オカルト要素だけでなく、教団を導くための社会的なルールという側面がある。
特定の教団員が、捨てる程食い物を買い集めれば、教団の食糧を偏らせてしまう事になり、他の購買力のない教団員が飢えてしまう。
無駄な食糧生産にリソースを割く集団が、他の集団を圧倒出来る道理もない。やがて淘汰されるだけだ。

だとしたら、食べ物を捨てる事がルール化されなかった理由とは何か?
それは、食べ物を捨てるという行為に、現実味が無かったからに他ならない。

平凡な人が食べ物を捨てるほど入手出来る状況というのは、ここ100年程度のごくごく浅い歴史しかない。
むしろ、国家や階層によっては現在も餓死者が出ている。近隣の先進的な国でさえ、80年も遡れば100万人を超える餓死者を出した程だ。

これは食べ物ではなく、硬貨と考えれば理解しやすい。最高額硬貨の500円玉だ。
イキッた成金でもない限り、どんなに財布がパンパンになっていても、500円玉をゴミ箱に捨てる人はいないだろう。
どうしても要らないと思ったところで、手近な人に差し出せば、喜んで貰ってくれる筈だ。

この状況の中で、「500円玉を捨ててはならない」というルールが出来るだろうか。

食べ物を捨てる人専用の地獄が考案されていないのは、正にそのためだろう。

地獄に行くのは誰か?

だが、本当に食べ物を捨てる流れに、地獄行き要素はないのだろうか?

ある、と言わざるを得ない。
食べ物を捨てる行為の大元には、不必要に生き物を殺す事、「不殺生戒」の抵触がある。
仏教の場合、この罪によって落ちる地獄は、「等活地獄」である。
ここに落ちた者は、互いに憎しみを抱き鉄の爪で殺し合い、時に鬼に身体を切り刻まれるが、すぐに肉体が修復される。
この苦しみが1兆6653億1250万年続く。

だが安心して欲しい。
この地獄に落ちるのは、食べ物を捨てたあなたではない。
1つで満足出来ない景品を、期間限定で食品に付けて販売する、その手法を採った会社の人々である。
景品欲しさに食べ物が捨てられる事を放置した時点で、会社は意図して不要な殺生をしているのと同じになる。
直接家畜を屠殺していないという理屈は通用しない。裁くのはポンコツアルゴリズムではなく、神や閻魔大王だ。
心当たりのある会社は、早々に販売方法を改めた方が良いだろう。

消費者側、食べ物を捨てている人達は安心して良い。
あなたたちが「不殺生戒」に問われる事はない。

だが、法は生き物だ。
遠くない将来、食べ物を捨てる事に対する地獄が、新たに作られる可能性は高い。
この地獄が完成する前に、閻魔大王なり何なり、あなたの信じるあの世の裁判を受けてしまうというのが、たったひとつの冴えたやり方ではなかろうか。

参考
ウィキペディア 地獄・最後の審判・七つの大罪・五戒

※画像はイメージです。

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